恋のパレード

策略の末、結論は -8-

 場所を変えて、ここは先生の車の中。
 何て言われるかと身構えていたら、先生は黙々と散らかった箒を用具入れに仕舞って。
 あたしが呆然と立ち尽くしていると「送りますから、どうぞ」と言われ、そのまま駐車場までついて行った訳だが。
 促されるまま助手席に乗り込むと、すぐに車は発進して学校を出た。
 先生はしばらく無言のまま車を走らせていたが、車内に漂う沈黙は重たいままで。
 何も聞かれない状況で言い訳することは憚られ、ずっと俯いていた。
 いつのまにか、車は交通量が少ない路肩に停まっていた。

「そんなに泣きそうな顔になるほど、彼が怖かったんですか?」
「…………」

 非難されているような、ぐさりと刺さる言葉はとても冷たかった。

(確かに今は泣きそうかも……)

 いつもと違う雰囲気に居たたまれない。
 優しい印象はすっかり消え失せ、先生の顔にはどこか陰りがあった。
 伝える言葉を間違えたら引き返せないような気がして。
 必死に言葉を探した。
 今、胸が押しつぶされそうなのは、これから何を言われるのかと恐れているから。
 突き放されるようなことを言われたら、堰を切って泣いてしまうかもしれない。

「それとも、怖いのは俺の方ですか?」
「……そんなこと……ないです」

 それは嘘じゃなかった。
 別れ話を切り出されるのは怖いけれど、先生の傍にいて感じるのは安らぎだったから。

「さっきみたいに迫られることが怖いんですか?」

 静かに問う声に、すぐに答えることはできなかった。
 今思っている事を先生に伝えていいものか、分からなかったから。
 それでも心配するような眼差しを受けて、あたしは口を開けざるを得なかった。

「自分でもよく分からないんです。先生は婚約者だからキスされても当然だと思っていました。だけど、難波くんとは……キスされようとした訳じゃないのに至近距離が耐えられなくて、嫌だと思ったんです。助けてくれた彼には申し訳ないですが、少し怖くもあって。こんなの変ですよね」
「……試してみます?」
「何、を?」

 その問いに返事はなく、先生の顔がだんだんと近づいてくる。
 さっき言った試すの意味が分かり、あたしは緊張して竦んでしまう。
 でも逃げたいという衝動は不思議となくて。
 目を瞑って、そのときを待つ。
 やがてフワリと触れる優しいキスが降ってきた。
 ゆっくりと遠慮がちに回される腕が更なる安心感を与え、胸が高鳴った。
 ドキドキが鳴り止まないうちにキスから解放され、自然と目が合う。

「怖いですか?」
「いいえ、むしろホッとする感じです」
「……素直すぎるところはどうなんでしょうか。俺としては嬉しいですが、他の奴に同じことを言われたらとんでもなく焦りますよ」

 苦笑いで呟かれ、意味を計り兼ねて首を傾げた。

「どういう……意味?」
「こういう意味です」

 先ほどの口付けとは違う、少し強引なキス。
 唇を啄ばまれて、その間にもシートベルトが外される音がした。
 体を支えていたベルトがなくなって、あたしは横向きに変えさせられた。
 次第に長いキスは深くなっていき、思考を麻痺させていく。

「あ……ふぁ……」

 そっと解放され、焦点の合わない目で先生を見つめた。
 だけど目の前の顔はどこか物寂しげな表情をしていた。

「あの時は流石に堪えましたね。もう二度と見たくないです」

 はっきりと告げられ、何だか申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 自分の不注意によって結果的に押し倒され、しかもそれを先生に目撃されてしまうとは失態というより他に言葉が見つからない。
 こんなに悲しい目をさせてしまったのは反省すべき点だが、心のどこかで妬いてくれているのを喜ぶ自分もいて。

(いやいや、ここはちゃんと反省しないと!)

 そう思ったのも束の間、ぐいっと顎を上に掴まれた。
 まっすぐと見つめてくる瞳が視線を縛る。

「常盤さんの今の気持ちを教えてください」
「……今の?」
「もう時間がありません。結婚式を中止するためには、今日中に手を打つ必要があります。でないと、もう本当に後戻りはできなくなります」

 まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなくて。
 瞬きを繰り返し、先生の言葉を頭の中で繰り返す。
 でも、既にあたしの中で答えは出ていた。

「――その必要はありません」
「……え?」
「あたしはきっと先生が好きです。今はまだ胸を張って言えませんが、これからいっぱい好きになる。先生と同じように、あたしにも予感があります。だから婚約破棄はしません」
「本当に後悔はありませんか? 俺を選んだら後戻りはできなくなりますよ? これからいい人が現れるかもしれない。……それでも?」

 少し疑い深い質問に、先生も同じように迷っていたのかと安堵した。

「結婚してからちゃんとした恋愛をしていくこともできる、そう言ってくれるのは一人しかいないと思います。ですから、結婚する人は先生以外には考えられません。幸せに、してくれるのでしょう?」
「はい。俺にできる限り幸せにします」
「なら、結果は出ました。あたしは日下部先生についていきます」

 そう言うと、はにかんだような笑みが向けられて。
 思わず可愛いと思ってしまった。
 順序はちょっと違うけれど、これがあたしたちの恋のはじまりだと予感した。
 第六感なのかな、理屈じゃなく、この人とならこれから先も大丈夫だと思う。

(ずっと、先生の傍にいたい)

 好きだからこその独占欲。
 自分の中にこんな感情があるなんて知らなかった。
 これからのことを考えると不安はたくさんある。
 けれど、先生が隣にいてくれるなら何とかなると思う。
 でもほんのだけ、少し複雑な気持ちも残ってて。
 数日前まではこの歳で絶対に結婚なんてしないって思っていたのに。
 駆け引きに負けるのが悔しくてお試し期間まで設けたのに、こうもあっさり好きになってしまうなんて。

(不覚としか言いようがないかも……)

 先生の抱きしめる力が心なしか強くなって、自分を包み込む腕にそっと手を添えてみる。
 触れた手の先から伝わる体温に安心し、ふと思い出したことを口に出してみた。

「ねぇ、先生。自分と似ている雰囲気だから興味を持った、って初めに言ってましたよね? あれは、財閥の人間として同じにおいがしたっていうことじゃないんですか?」
「確かにそういう見解もあるかもしれませんが、俺はそういうのを抜きで貴方に興味を持ちました。生徒のひとりとして見ているうちに、だんだん惹かれていました。今では他の男に取られると思っただけで、どうしようもないくらい嫉妬してしまうほどです」

 赤面してしまいそうな言葉の羅列にドキドキが止まらない。
 だけど、あたしを見つめてくる先生の顔には恥ずかしさは一切感じられなくて。
 自分ひとりが意識し過ぎている気がして、こっちが恥ずかしくなってきた。
 それを隠そうとコホンと咳払いをする。

「ところで、あたしはいつまで名字で呼ばれ続けるんでしょうか?」

 少し拗ねた風に言うと、先生は一瞬きょとんとした顔となった。

「すみません、少し他人行儀でしたか。……奈江さん」
「さん付けは要りません」
「では、奈江。これから結婚に向けて準備は山ほどありますよ」

 あたしたちはお互い顔を見合わせて笑った。
 今なら、みのりの言っていた言葉がよく分かる。
 確かに他の女性に取られるなんて真似、とても耐えられそうにない。
 本当に分かりやすい喩えだったんだと心の中で納得していた。