恋のパレード

大切なのは、過去か現在か未来か -8-

 真夜中というには少し早い時間帯。
 しかし、夜のひんやりとした空気は容赦なく肌の温度を奪っていく。
 身震いこそしなかったものの、体を伝う寒気に肘をそっと掴む。

「寒いでしょうから、中へどうぞ」

 先生に促されて、あたしは助手席に乗り込んだ。
 彼も続いて運転席へと乗り込み、まだ車内に残っている温もりに体が安らぐ。
 だが車内に降りた沈黙は思ったほか長く、耐えかねてあたしは口火を切った。

「あの……何かあったんですか?」
「…………」
「先生?」

 重い間を経て、先生は表情を消したまま言葉を発した。

「本当はずっとあなたの姿を見ていたくて、声を聞いていたくて。けれど今のままでは、あなたは俺から離れてしまうと思ったんです」

 その言葉はこれ以上ないくらい、あたしの心を揺さぶるには充分だった。
 鼓動が早くなるのが分かる。
 あたしは震える唇をなんとか動かした。

「……離れるとは、どういうことですか……?」
「8歳上の俺なんかじゃなくて、価値観も共有できる同年代を選ぶ日がくるかもしれない。俺と結婚しても後悔させるんじゃないかと、最近はそんなことばかり考えるんです」
「どうして……? あたしはそんなこと、一言も言っていません。ちゃんと自分から望んで先生を選びました。それでも信じられないということですか?」

 言いながら泣きそうになってきた。
 このまま別れを切り出されるのではと考えるだけで、胸が押しつぶされそうになる。
 不安だけが一気に膨らんでいく。
 誤解を解きたいと思うのに、どう言えば自分の気持ちを伝えられるのかが分からない。
 先生は感情の読めない表情を崩さず、静かに言葉を紡いでいく。

「あなたを愛しいと感じる時間が増えるにつれ、不安になるんです。なずなのときのように、気づけば離れてしまっているんじゃないかと」

(……なずな……)

 先生の中での一番は彼女なのではという疑惑は確信へと変わる。
 幼稚園での初恋のときと同じように、あたしの好きな人はあたしじゃない人を見ている。
 その事実は心をどんよりと曇らせていく。
 もはや何を言っても意味をなさないと悟り、開きかけた唇をキュッと引き絞った。
 代わりに先生を見つめ返すと、あたしの姿を映す瞳がそっと伏せられる。
 そして数秒の間を置いて、ぽつりと呟くような声が聞こえた。

「泊まりに来ませんか?」
「……はい?」
「もし良ければの話ですが、泊まりに来ませんか。明日の夜」

 すぐには言われた意味が理解できなかった。
 何度か頭の中で繰り返してから、やっと意図が飲み込めた。
 が、答えはすぐには出ない。
 この唐突の申し出は予想だにしなかった展開だ。

(ここで返答を間違えたら、きっと取り返しがつかない――)

 先生が何を思っているのかは相変わらず読めなくて。
 だけど触れたら壊れそうな危うさを感じて。
 不安なのは自分だけじゃないんだと遅れて気づく。
 この誘いに応じてもいいのだろうかと自分自身に問いかける。
 もし、拒否すれば先生はもう自分から歩み寄ることはしないように思う。
 かといって先生が他の人と結ばれるのを想像するだけで、ギシギシと胸が軋むようで。

(あたしは――先生のそばにいたい)

 純粋な自分の気持ちを確かめるよう、静かに頷く。
 たとえ先生の中で一番でなくても、そばにいられるのならば。
 覚悟を決めてあたしは顔を上げた。

「お邪魔します。先生の家に」

 不思議と声は震えることはなかった。
 先生は少しだけ驚いたように目を見張り、やがて張りつめていた雰囲気を解いた。

「そうですか。良かった」

 おどけたような笑顔を向けられ、これで良かったんだと思う。
 それからそっと首に伸ばされた腕に引き寄せられ、柔らかな口づけが落とされる。
 短いキスの後、あたしは視界から先生の車が見えなくなるまで見送った。
 震える右手を強く握りしめながら。

        ......

(待って、置いて行かないで……!!)

 周りは霧が立ちこめて視界が悪い中、懸命に手を伸ばす。
 だけど握る腕はなく、掴もうと伸ばした手は虚しく宙を切る。
 濃霧はさらに濃さを増し、自分自身の姿でさえ消えてしまいそうな感覚に陥る。
 左右を見渡すが、誰ひとりとして気配は感じられず、ひとりだけぽつんと世界に取り残されたようだった。
 心に湧き上がるのは悲しみと絶望。
 望んだものは手に入らないという現実がのしかかり、崩れ落ちるように地面に膝をつく。
 置いてきぼりにされる辛さは昔から慣れていたはずなのに。
 胸にぽっかり穴があいたように虚しさだけが残る。
 両手で顔を覆い、気持ちに蓋をするように瞼を強く閉じる。
 こんな思いをするぐらいなら、恋なんてするんじゃなかった。
 そうすれば――。

(……うっ。頭が痛い……)

 痛みが走った部分に手をやり、あたしは足を止めた。
 今朝の夢がまるで現実のように鮮明に目に焼き付いたままだ。
 夢が今の自分の心を映し出すものだとすれば……。

(関係を解消されるかもしないと心のどこかで怯えている……)

 そんなことないと思いたい。
 先生が誘ってくれた真意は別だと信じたい。
 そう思うのに、心を浸食していく弱い自分を押し込むこともできなくて。
 昔のように自分の気持ちを押し殺して諦めてしまえば、きっと楽になれると思う。
 でも、それは選べない。
 今逃げてしまえば絶対、後悔だけが残るから。
 あたしは今にもよろめきそうな体に気合いを入れ直し、空を仰ぐ。
 放課後の空は澄んだ夏の色で、筋状の雲が放射状にいくつも延びていた。
 夕暮れの色が迫るにはまだ早い時間帯、校舎からは吹奏楽部の音出しが聞こえてくる。
 軽く息をつき、足を前へ踏み出そうとしたとき、それは第三者の声によって阻まれた。

「常盤先輩。これから帰られるところですよね?」

 声のする方へ視線を向けると、先日知り合ったばかりの後輩がいた。
 校門横の壁際に背中を預けていた彼は体を起こし、にこにこと近づいてくる。
 あたしは呼び止められる理由が思い当たらず首を傾げた。

「……えっと」

 思わずジッと見返してしまう。
 その視線を受けとめた後輩は苦笑いを浮かべながら言う。

「朝比奈翼です」
「ええ。それは知って……いえ、ちゃんと覚えているけど」
「今日はお礼をさせて頂こうと思いまして。待ち伏せさせて貰いました」

 悪戯っぽく言う彼に、あたしは息を呑んだ。
 確かにこれは待ち伏せという言葉が正しい表現だと思う。
 頭の端で彼の言葉に納得しつつも疑問を返す。

「お礼って……何のこと?」
「いやだなあ。僕と先輩の接点といえば、ひとつしかないじゃないですか」
「接点?」

 意図することが分からなくて鸚鵡返しに呟いた。
 すると、朝比奈くんは不機嫌になるどころか、楽しそうな笑みを浮かべる。

「フォークダンスのパートナーですよ。ってことで、さあ行きましょう」
「え、え? ……って、ちょっと待って!」
「もう予約してますから、急がないと。失礼します」

 そう言って左手を取られて、あたしはつられるように小走りで学校から連れ出された。