恋のパレード

大切なのは、過去か現在か未来か -10-

「あ、あの……っ」

 早く言わなきゃ、と気持ちばかりが焦って言葉が出てこない。
 思い浮かぶ単語はどれもピンとこなくて。
 言葉が口の中で空回りしている間、ちょうど後ろを車のエンジン音が通り過ぎた。
 するとその音を拾ったのか、電話口から低い声が聞こえてきた。

『失礼ですが。今、どちらですか?』
「………」
『奈江』

 強めに名前を呼ばれ、目を伏せた。

「……先生のマンション前です」

 おとなしく白状すると、電話越しにも分かる息を呑む気配が伝わる。
 それからさっきよりも低い……否、冷たい声が聞こえてきた。

『すぐに行きますから、そこで待っててください』

 すぐに途切れた通話に呆然と携帯電話を持っていた左手を降ろした。

(どうしたら……いいの?)

 会いたいとは思った。
 だからこそ、今ここにいるのだけど。
 どうしようもなく逃げたくなる衝動を抑えきれない。
 もし注がれる視線が冷たい色を帯びていたら。
 その瞬間、ここに来た意味を失ってしまう。
 なのに、足がその場に縫い付けられたように動けない。
 しかし常盤家の人間として生きてきた証を捨てる真似もできなくて。
 こんなプライド、いっそ捨ててしまえば楽になれるのに。
 でも常盤の血が流れているからこそ、今あたしはここにいるのだからと覚悟を決める。
 そうしてどのくらい待っただろう。
 緊張で時間の流れがゆっくりに感じ、数分の事だと思うのに何時間も待っているような感覚に襲われていた。
 ほどなくして、エントランスの自動ドアが開いて先生が姿を現す。

「なぜ、ここに?」

 焦りの色も見え隠れたした、短い言葉。
 先生は外に突っ立っていたあたしを中へと招いてくれたが、足は数歩進んで止まった。

「……すみませんでした。謝らなくてはと思って」
「気にしないでください。何か事情があったのでしょう?」

 優しい声音に何だか居心地が悪くなる。
 非は全てあたしにあるのに。
 何の疑いもなく言われた言葉に良心が傷んだ。

「いえ……あの」
「もういいですから。今、車を回しますから。少し待っていてください」
「……え?」

 あたしは無意識にも去ろうとした彼の腕を掴んでいた。

「……帰れ、ということ、ですか?」

 途切れ途切れに話す口がもどかしい。
 ここまで来たのに、家に上がることも叶わず実家に帰されようとしている。

(つまり、もう顔も見たくないということ?)

「時間も遅いですし、ご家族も心配されるでしょう。こんな時間に外に出歩いては何かと危ないです。だから……」

 我慢できずにその言葉を遮り、訴えるようにして声を張り上げる。

「今は生徒としてではなく、婚約者の常盤奈江としているんです!」
「奈江……」
「先生の言い方はまるで他の生徒と同じじゃないですか。だとしたら、あたしはずっと生徒として見られているってことになります。……そんなの、嫌です……」

 子供みたいな言い方だっていうのは百も承知だ。
 だけど自分の気持ちを隠し通すことは最早できなかった。
 やがて、先生の静かな声が聞こえた。

「俺は婚約者である前に一人の教師です。その事実が変わることはありません」
「……そうですよね、子供の我侭に付き合ってくれるような恋人なんていませんよね。ごめんなさい、迷惑ばかりかけて」

 否定しない彼の瞳を見て唇を引き結ぶ。
 込み上げてくる涙を堪えながら、先生を真っ直ぐと見据えて言う。

「家に……帰ります。車は家から呼びますから大丈夫です」
「………」

 耐えきれなくなって後ろを向いた。
 何も言わないのは、やっぱり子供のような我侭ばかり言うあたしに飽きたからなのか。
 そう問い質したい気持ちを懸命に抑え、握ったままの携帯電話の画面を見つめる。
 実家のナンバーを呼び出すのは数秒で終わる……けれど。
 通話ボタンを押すのを躊躇っていると、不意に背中に重みを感じた。

「そんなに泣きそうな顔をしたままのあなたを帰すことは、できません」

 予想外の言葉に思考が停止した。
 後ろから抱きしめられる力が心なしか強くなる。

「泣くときは、俺の前で泣いてください。俺がいないところで泣いて欲しくない」
「……せん、せ……」

 やっと出た声は掠れていて。
 嗚咽を我慢していたせいかもしれないと頭の隅で思った。
 耳にかかる吐息とともに吐き出される言葉に神経を集中させた。

「すみません、言い方が悪かったですね。……でも誤解はしないでください。俺は生徒というよりも、婚約者としていつもあなたを見ています」
「……嘘」
「そう言われても仕方ないことをしたので、言い返せませんが。それでも俺はずっとあなただけを見ています」

 最後の言葉に思わず振り返り、先生を凝視した。
 あたしの姿を映す瞳に偽りの色はなかった。
 だからだと思う。
 ずっと胸につかえていた思いを自然と吐き出していた。

「先生にとって相原さんが一番だとしても、あたしはそばにいたいです」

 後ろから抱きしめられた腕に自分の手を乗せる。
 先生は数秒の間を置いて、驚いたようにさっと腕を解いた。
 背中越しの安心感がなくなり、触れていた箇所が一気に冷たくなる。
 ずっと触れていたい気持ちを振り払い、先生に向き直った。
 あたしを見下ろすのは戸惑った顔だった。

「ちょっと待ってください。何のことですか?」
「――この前、仰ってましたよね。『なずなのときのように、気づけば離れてしまっているんじゃないか』って。そう言うということは、今も先生の中で彼女の存在は大きいんじゃないんですか?」
「…………。いいえ、それは違います。今、俺の心を埋め尽くしているのは奈江だけです」

 すらすらと淀みなく答える言葉は、取り繕っている感じはなくて。
 あたしは心を覆っていた暗雲が晴れていくのを感じた。
 手放しで喜びたいのに、冷静なもうひとりの自分がストップをかける。

「でも、彼女を下の名前で呼んでいましたよね。あれは、特別だからなのでは?」
「……俺が所属していたサークルに相原という名前の人が三人もいたんです。紛らわしいので皆、あだ名や下の名前で呼ぶようになっていて。だから俺も名前で呼んでいたわけです」
「けど……っ。先生が好きになった『サークルの後輩』は彼女のことですよね?」

 先生は目を見開き、驚きをあらわにした。
 そうして観念したように浅く息を吐く。

「参ったな……」

 あたしは彼の身じろぎひとつ見逃さないよう、目を凝らしていた。
 それが伝わったのか、先生は意を決したように口を開く。

「この際ですから全部話しますが、彼女と付き合っていたことはありません。お互い好きな時期はありましたが、どちらもそれ以上は踏み込まなかった。そうしている内に、彼女には他に好きな人ができていたんです。……前に話した話は、そういうことです。両想いの状況でも俺が不甲斐ないばかりに何の進展もなく、気づけば他の男に奪われていた。だから、奈江もそうなるかもしれないと怯えていたんです」

 そこで一旦言葉を切り、呆然と聞き入っていたあたしを見下ろす。

「だから、今夜あなたをうちに招こうと思ったんです。自分が後悔する前に、ね。……誤解は解けましたか?」
「――は、はい」

 意外な感情の吐露にそれだけを答えるのが精一杯だった。