恋のパレード

夢と現実の境目 -6-

 あたしは促されてソファに腰掛ける。
 スプリングの利いたクッションは、柔らかな厚みがあって座り心地も良かった。
 先生は真向かいの一人用のソファに腰を下ろし、口を開く。

「今日はお疲れ様でした」
「はい、……少し緊張しました」
「俺もですよ。でもつつがなく終えることができ、安心しました」

 そのまま、しばらく見つめあっていると不意に視線が外される。
 視線の先を追うと、自分の左手に向けられていることに気づく。
 薬指には先ほど先生に嵌めてもらった婚約指輪がキラキラと光っている。

「最近、忙しくて時間が取れないって言っていたでしょう?」
「? ええ……」
「受験生の検定対策もありましたが、奈江の指輪を探してたんですよ。あとは諸々、結婚式の準備の初期の打ち合わせを」
「そうだったんですか?」

 聞き返すと、困ったような笑顔とともに頷かれる。

(どうしよう、今ものすごく顔がにやけそう……っ)

 仕事で忙しいんだとばかり思っていたから、まさか自分のことで色々奔走してくれていたんだとは思いもしなくて。
 今までの寂しい気持ちなんか一気に吹き飛び、嬉しくてたまらない。

「構ってあげられなくて、すみませんでした」
「そ、そんなことないです。だって、先生は仕事もしながら大変だったでしょう?」
「奈江と俺のことですから苦になる事はありませんが……そうですね。我が儘を言うのなら、今日は存分と甘えさせてくれると嬉しいです」

 甘えるという単語が彼とはすぐには結びつかず、疑問符ばかりが浮かぶ。
 けれど、目の前にいる先生はあたしの答えを待ちわびているようだった。

「え、ええと。……はい、もちろんです」
「よかった。では早速、こちらに来てもらえますか?」

 そう言って先生は自分の太腿をぽんぽんと叩く。
 言われる意味が分からず、しばし瞬きを繰り返す。

「あのう。……それは一体?」
「婚約者のスキンシップです。さあ、遠慮なくどうぞ」
「…………」

 全く揺らがない瞳を見るからに冗談ではなさそうだ。
 静かに待っている気配をひしひしと感じ、あたしは観念して立ち上がる。
 それから、心の中で軽く嘆いた。
 先生の羞恥心は一体どこへ旅立ってしまったのかと。

(いくら婚約者とはいえ、教え子に対する要望として……これっていいの?)

 自分に問いかけてみるが、確かに先ほど了承したわけで。
 今更恥ずかしいと拒むのはさすがに気が引け、おずおずと先生の元へ向かう。

「あの……どうすれば?」

 下から見上げてくる先生はふっと笑みを零す。
 彼の目の奥で悪戯っぽい光が動いているのを見てしまい、なんとなく及び腰になる。

「では、少し失礼」

 彼の長い腕が伸びてきたかと思うと、太腿の上にちょこんと乗せられて。
 そのまま横向きで座らせられて一瞬ぐらつきそうになるが、すぐに腰を引き寄せられてそのまま固定された。
 太腿から体が傾く不安はなくなったが、やっぱり落ち着かない。
 ていうか、どう考えても変な体勢だと思うんだけど。

「…………」
「…………」
「あの、これって想像以上に恥ずかしくないですか?」
「いいえ? 溢れんばかりの幸せを感じています」
「……ソーデスカ」

 棒読みで返したのに、先生は全く気にする素振りはない。
 あたしはというと目のやり場に困り、恥ずかしさのあまり俯くので精一杯だった。
 身近には先生の吐息。
 それを感じるだけで、もう頭から火が噴きそうになっていた。
 非日常的なことをしてるせいか、どうしたって意識せずにはいられない。
 もしこれが確信犯だとしたら……とんだ意地悪だ。

「あの、先生。申し訳ないのですが、降ろしてもらえませんか?」

 意を決して言うと、先生は目を丸くして尋ねた。

「どうしてですか?」
「……その、ちゃんとした話をしたいので……」
「大丈夫ですよ。このまま話してください。それとも、俺の足では居心地が悪いですか?」

 まるで捨て犬みたいにつぶらな瞳があたしを見つめてくる。
 どこにそんな最終兵器を仕込んでいたのか、と問いたくなるほど心は動揺して。

「わ、わかりました。このままでいいです」
「ありがとうございます」

 先生は安心したように笑顔を向けてきた。
 でもこれから言うことを思うと、その笑顔を直視できない。

「この前の約束ですけど……その、あのときは電話に出れなくてごめんなさい」
「いいえ、大丈夫ですよ。俺も都合も聞かずに、いきなり誘ったようなものですから」
「で、でも……何度も電話してくれたのに、それに気付いたのは何時間も後でしたし……」

 言いながら、本当に何て悪いことをしたのだろうと自分を責める。
 彼が気にしない素振りでいるのは、こっちに気を遣ってくれているからだ。
 それがきっと、大人の気遣いなんだと思う。
 こんな風にしか謝ることしかできない自分はやっぱり、まだまだ子供だ。

「じゃあ、聞きますが。もし俺のコールに気付いていたなら、あなたは出てくれた。違いますか?」

 すべてを見透かしたような視線が注がれ、こくりと頷く。
 あのとき、気付いていればすぐに電話に出たはずだ。
 目の前に後輩がいても『出ない』という選択肢はなかったと思う。
 そしてすぐにでも、彼のもとに行っていたはず。

「実はあのとき、後輩の男の子と食事をしていたんです。といっても、下校途中に強引にホテルのレストランに連れて行かれたのですが。携帯電話を人質にされ、帰るに帰れなくて」
「…………」
「本当にごめんなさい。すぐに言おうと思ったんですけど、……どう説明していいか分からなくて」
「いえ……そういうことなら、仕方ないでしょう。半ば無理矢理だったのでしょう?」
「ええ。フォークダンスのパートナーを引き受けてくれたまでは良かったんですけど、まさかあんなに強引なことをすると思わなくて」
「ちなみに、彼とは食事だけを?」
「はい。なんでも、そこのホテルのオーナーのご子息らしくて。食事に誘ったのはパートナーのお礼と言っていました。……あの、先生。あたしのこと、まだ信じてくれますか?」

 硬い表情で聞いていた先生の心は読めなくて。
 不安要素ばかりが胸を渦巻いていた。
 あたしの問いに先生は瞬きを繰り返し、やがて重い口を開く。

「奈江は俺と一緒にいることが嫌になりました? だからそう言っているんですか?」
「ち、違います……っ」
「本当に?」

 聞き返す言葉は真剣味を帯びた低い声で。
 自分の心ない問いかけに、彼を傷つけてしまったのだと悟った。
 張りつめた空気に胸が苦しくなる。
 どうすれば彼を安心させられるだろうか。
 自分の素直な気持ちを伝えたいのに、いい言葉が全然思いつかない。
 歯がゆい心境に駆られながらもジッと見てくる先生に、たどたどしくも言葉を返す。

「一緒が嫌だと思っていたら……あたしは今……ここには、いません」
「俺は、はじめから奈江を信用していますよ。信用しないことには何も始まりませんから」

 今の彼の心境をすべて物語っているような重い響きだった。
 信頼関係を築くためには、まず自分が相手を信じることから。
 そんな当たり前なことを言われて、あたしは自分が恥ずかしくなり俯いてしまった。
 どのくらい沈黙が続いただろう。
 静寂を破ったのは、先生の少し明るさを取り戻した声だった。

「まあでも、その相手は気になりますけどね」
「……え?」
「奈江を横から攫おうとする脅威とも限りませんし。信じてはいますが、何も心配がないって言ったら嘘になるでしょうね。後輩の彼とは一体どなたのことですか?」

 朗らかに言ってはいるが、よくよく見たら目は笑っていなかった。
 先生の嫉妬の炎を垣間見た気がして、背筋に冷たいものが流れる。

「え、えっと。朝比奈翼くんです。……みのりと同じ、美術部の」
「なるほど、朝比奈くんですか。確かに彼は何を考えているか分からない節がありますね」
「……先生、知っているんですか?」
「はい。彼のクラスの授業を受け持ってますよ。一年と二年が俺の受け持ちですから」
「なんだ、そうなんですか」

 意外な繋がりにびっくりしたけど、確かにそれなら納得できる。

「……しかし、朝比奈グループのご子息だったとは意外でした。念のために、ちょっと俺の方でも調べておきますね」
「え? あ、はい」

 何となしに頷き返したけど、先生は少し遠い目をしていた。
 その黄昏れたような横顔にしばらく見入っていた。