恋のパレード

夢と現実の境目 -9-

 目が覚めると、広いベッドにはひとりだけだった。
 たぐり寄せた時計の針は6時前を指していた。

(……月曜、ですか)

 起き上がり、ハンガーにかけてあったスーツに身を包む。
 ネクタイを締め、同時に気を引き締める。
 ドレッシングルームへと足を向けると、先客がちょうど出てきたところだった。

「あ、先生。おはようございます」
「おはようございます。……早いですね」
「今日は早くに目が覚めちゃって」
「あれ? 何だか、いい匂いがしますね」

 昨夜の柑橘系とは違う、甘い香り。
 奈江から漂う色香にあてられ、思わず喉が鳴る。

「起きてすぐ、シャワーを浴びたので」
「……なるほど。確かに髪から同じ香りがします」

 掬い上げた髪の一房に口づけると、奈江の頬が仄かに赤みを帯びる。

「そういえば、朝の挨拶がまだでしたね」
「え?」

 不思議そうに見上げる顔に、微笑で応じる。
 頬を両手で包みこみ、顔を近づけた。

(今日が休日であれば、と考えてしまうのは俺だけかな)

 驚きと期待が入り交じった瞳が見つめてくる。
 柔らかい頬に、そっと触れるだけのキスを落とす。
 奈江は瞬きを繰り返し、拍子抜けしたような表情で俺を見上げていた。

「唇の方がが良かったですか?」
「せ、……先生っ! わざとですね?! わざとそう言っていますね?!」
「さあ。何のことやら、俺にはさっぱりです」
「……っっ」

 してやられた、とばかりに憤る姿でさえ愛おしくて。
 存外に喜怒哀楽が激しい一面を持つ彼女。
 学校とは違う、気を許しているからこその態度の変化。
 ずっとこうしていたい気持ちに駆られるが、平日の朝ではそれも難しい。

「実家にお送りしますよ。制服や準備もあるでしょうし」
「……そ、そうですね。ありがとうございます」
「いえいえ。では、行きましょうか」

 俺は奈江の手を取り、ホテルを後にした。

        ......

 午前中の授業を終え、学食へと向かう。
 しかし、目の前から辛そうに歩いてくる女生徒が目に入り、足を止めた。
 彼女はまだ俺に気づいた様子はなく、ふらついた足取りなのが気に掛かった。

「常盤さん。辛そうですが、大丈夫ですか?」
「……日下部先生」

 心無しか、虚ろな瞳が俺を見上げる。
 体育館からの帰りだったらしい婚約者は、ひどく疲れた様子だった。

「もしかして、熱でもあるんじゃないんですか?」
「いえ、熱はないんです」
「それでは、体育でバテてしまったとか?」
「……体育は得意な方です」
「うーん。じゃあ、前日に激しい運動をしたとかですかね……」
 
 そこまでいうと、奈江の表情が明らかに変わった。
 どうやら俺の推測は当たっていたらしい。

「その顔は心当たりがあるようですね」
「……ええ、まあ」

 ここが学校だからだろう。
 あなたが原因です、とばかりに目が訴えてくる。
 俺は素知らぬ振りを装い、笑顔で返す。

「よかったら、保健室へ行くのに付き添いましょうか?」
「…………。いえ、大丈夫です。本当に、何でもッ、ないですから」

 言葉の端々に、今の彼女の心境が如実に現れていた。
 少々からかい過ぎたのかもしれない。

「放課後も文化祭の準備で忙しいでしょうし、あまり無理はしないでくださいね」
「……はい。では失礼します」

 言うなり、再び重い足取りで教室を目指す彼女。
 いつもはピンと伸びた背筋が少しだけ丸くなっている。

(今度からは学校の前日はセーブしないと、ですね……)

 婚約者の辛そうな後ろ姿を見送りながら、罪悪感に駆られていた。

        ......

 放課後、俺は2−8組へと足を向けていた。
 副担任として、手が離せない担任の代わりに様子を見にいくためだ。
 我がクラスの出し物はお化け屋敷だとか。
 担任の教師によると、小道具班が粋な仕事をしているという話だったが、授業中に後ろのロッカーの上に黒い布で覆われていたアレがそうだったんだろうか。
 連日遅くまで残って準備に励んでいる生徒のために、自分ができることがあれば協力は惜しまないつもりだ。
 高校の文化祭は彼らにとって、かけがえのない思い出になるはずだから。

(そういえば、奈江は怖いものとか平気なのかな)

 婚約者の怺える姿を想像してみるが、どうもしっくりこない。
 強気な性格の彼女のことだ。
 仮に怖いと思っていても、表には出さないことは十二分にあり得る。

(俺としては、素直になってくれる方が嬉しいんですけどね)

 受験生の英検対策が終わったのも束の間、やることは次から次へ舞い込んできて。
 生徒主体の文化祭とはいえ、教職員も細かな雑事が回ってきていた。
 奈江もクラスの準備や総務委員で駆り出されるらしく、今週は手一杯のようだった。
 お互い忙しいということで、次に会えるのは文化祭最終日。
 後夜祭が終わるまでの辛抱だ。
 平日の夜に会えることが難しくなってからというもの、会いたい思いは募る一方で。
 本音をこぼせば、毎日会って抱きしめたい。
 その声を身近に感じていたい。
 先週までは、自分の都合で会えない状況で電話をするのも憚れ、結局は掛けられないまま日付けが変わっていることもあった。
 結婚すれば、ずっと一緒にいられると分かってはいるけれども。

(会えない時間が長いほど、こんなに寂しく感じるものなんですね……)

 物思いに耽っていたせいか、いつの間にか目的地に着いていた。
 気持ちを切り替えて、表情を改める。

「あ、先生。どうしたんですか?」

 クラスを覗き込むと、すぐに声を挙げたのは総務委員の男子。
 つられて彼の周りにいた生徒たちの視線が集まる。

「ちょっと様子を見に来ました。準備は間に合いそうですか?」
「うーん。ギリギリってところですかね……ん?」

 ふと、彼の視線が窓際に向く。
 俺もそちらを見やると、作業をしていた生徒たちが何やら言い争っていた。
 真面目な総務委員は率先して仲裁に入っていく。

「なんだ、どうかしたのか?」
「あ。実は……」
「…………それは、ちょっと。いや、かなりヤバイな」
「どうしたんです?」

 俺が尋ねると、皆の視線が床をさまよう。
 皆が口を閉ざす中、総務委員が代表して答える。

「それが……暗幕が全然足りないみたいなんです。生徒会室に借りに行った奴が数を間違えたみたいで。さっき慌てて借りに行ったら、もう在庫はないって」
「それは困りましたね」
「暗幕を使う前提で仕掛けを作っていたし、代わりになるものは何かあったかなあ」

 頭を掻いて悩みだす総務に、周りから代替案が飛び出す。

「な、ならさ。段ボールや新聞紙を上から吊るせばいいんじゃね?」
「……いや、重みや厚みが問題だな。何かの拍子で簡単に剥がれたら意味ないし」
「あーそう……だよな。やっぱり暗幕しかないかー」

 困り果てた声に、俺は助け舟を出すことにした。

「だったら、僕が何とかしてみます。少しだけ待っていてください。皆は他の準備を」
「お、俺も行きます!」
「じゃあ、二人で行きましょうか」

 生徒会室を訪ねると、部屋には難波くん一人だけだった。
 事情を話すと申し訳なさそうな声が応じる。

「何とかしてあげたいのは山々なんですが、ないものはどうにも……」
「すみませんが、貸し出し用の記録を見せていただけませんか?」
「え? あ、これですけど」

 おずおずと差し出されたノートをめくり、クラスと使用目的の欄に目を通す。
 一通り見終わった後、不思議そうに見守る二人にノートを見せる。

「こことここのクラス、暗幕の貸出量が多くないですか? 余裕を持って借りて、今頃余っているなんてことも」
「……申請に来た順に渡していたので、そこまで考慮してませんでした……」

 難波くんは消え入りそうな声で呟く。
 けれど、次の瞬間には気を取り直したのか、息巻いて宣言する。

「これは俺の責任です。ちょっと該当のクラスを見て回ってきます!」

 勢いよく生徒会室を飛び出した彼に圧倒され、残った俺たちは二人顔を見合わせた。
 やがて、しばらくすると暗幕を重たそうに抱えた難波くんが戻ってきた。

「も、戻りました。……お化け屋敷、これで何とかなりますか?」
「あ、ああ。これだけあえば何とかなると思う!」
「よかったー」

 難波くんは安心したのか、へなへなとその場に屈んでしまう。
 俺は労いを込め、その背中にぽんと手を置く。

「お疲れさまでしたね、難波くん」
「俺からも感謝するよ。本当にありがとう。……じゃあ先生、俺は教室に戻りますんで」
「ええ、きっと皆も安心するでしょう。僕は準備室にいますから、また何かあれば言ってください」
「はい!」

 言うなり駆け足で戻っていく総務委員を見届ける。

「では、僕もこれで失礼しますね」
「今回は生徒会の不手際でご迷惑おかけしました……」
「いえいえ、何とかなりましたし。あまり気にしないでください。大事なのは結果ですよ」
「今後は気をつけます」
「頑張ってください」

 俺は踵を返し、生徒会室を後にする。
 デスクに残したままの仕事があるからだ。
 だが英語準備室へ向かっているとき、渡り廊下から呼び止める声が届く。

「日下部先生。こんにちは」

 振り返ると、そこには絵筆を持った男子生徒がいた。

「……こんなところで奇遇ですね。朝比奈くん」
「美術部の作品の仕上げが残っていますから。――それはそうと」

 朝比奈くんは一旦言葉を切ると、つかつかと歩み寄ってきた。
 そして俺だけに聞こえるように耳元で囁いた。

「いくら親公認とはいえ、女子高生は色々とマズいんじゃないんですか?」
「…………」

 眉根を寄せて見つめ返す。
 だが、彼はすぐに距離を取って無邪気な笑顔を向けてきた。

「少々お時間いただけませんか?」
「……わかりました」

 彼の後に続き、美術準備室に入る。
 所狭しと置かれた彫像や画材の端に、角張りのソファが鎮座してあった。

「ごちゃごちゃしたところで、どうもすみません。お互い誰かに話を聞かれたくないでしょうから、少しだけ我慢してください」
「いえ。大丈夫です」
「よかったらお掛けください。それは転勤された美術の先生の置き土産なんです。一応、掃除もしていますし、座り心地は悪くないはずですよ」
「……では、お言葉に甘えて」

 俺が腰を下ろすと、朝比奈くんは少し離れた丸テーブルの上にどかりと座った。

「日下部先生はフォークダンスの件はご存知ですよね」
「最終日にある、後夜祭の催しですね。それがどうかしましたか?」
「常盤先輩は誰と踊るんでしょうね」
「…………。僕は生徒同士の交流について、そこまで詳しくないですから」

 あくまで一教師として答える。
 おそらく、彼はこちらがボロを出すのを待っている。
 一歩間違えれば自分だけでなく、彼女すら窮地に追い込んでしまうかもしれない。
 それだけは何としても避けなければいけない。
 そんな胸中を知ってか知らずか、朝比奈くんは困ったような笑顔を見せた。

「なんだ、てっきり婚約者なら知っていると思ったのに」

 落胆した声が聞こえてきて、俺はやはりかと内心つぶやく。
 彼にも伝わるように、大きめのため息をひとつ吐き出す。

「君はどこまで知っているのですか?」
「どこまでとは?」
「はぐらかさないでください」
「……先生が余裕をなくすなんて、珍しいですね。常盤財閥令嬢と婚約したのは、やはり祖父である会長の命令だからですか?」

 俺の動揺を見逃すまいと鋭い視線が突き刺さる。

(彼の目的は奈江か、それとも……)

 真意を計り兼ねていると、朝比奈くんがテーブルからおもむろに立ち上がる。

「いくら頑張っても歳の差は埋められない。あなたは教師で、生徒に勉強を教えるのが仕事のはずです。だったら、その生徒に手を出すのは教師失格なんじゃないですか?」
「……そうかもしれませんね」
「常盤先輩が先生のことを好きだとしても、数ヶ月もしたら覚めますよ。社会人との恋なんて長続きするわけがない。これから僕たちは大学生になって、どんどん新しい出会いがある。その中で、教師のあなたが結婚で彼女を縛るんですか?」

 責め立てるように言われ、俺は否定も肯定もできなかった。
 逃げるように話題を逸らす。

「そこまで言うってことは、君は彼女が好きなんですか?」
「……常盤先輩のお見合い相手の候補には僕も含まれていたんですよ。だから先生が婚約破棄してくれれば、僕が彼女を自由にしてあげられます」
「どういう……ことです?」

 朝比奈くんはたっぷり間を空けてから口を開く。

「偽物の恋ではなく、本物の恋をするんです。そうなれば、政略結婚ではなく恋愛結婚になる。常盤先輩を悲しませることにはならない。――僕は諦めませんよ」

        ......

 教職員用の駐車場に着き、ポケットから車のキーを出す。
 ボタンを操作すると、すぐ近くのヘッドライトがちかちかと点滅した。
 運転席に乗り込み、ハンドルにもたれかかる。
 そして、先程受けたばかりの宣戦布告を思い出す。

(……どうやら、ただ傍観しているわけにはいかないようですね)

 ケータイを取り出し、目的の電話番号を呼び出す。
 通話ボタンに指を滑らせ、機械音に耳を傾ける。
 いつも通り、電話先の相手は三コール以内に出てくれた。

「急にすみません。実は調べてほしいことが……」

 電話を切り、ほっと息をつく。
 できれば祖父の秘書の手を借りることは避けたかったが、今回は致し方ないだろう。
 むざむざと彼女を誰かに渡すつもりはない。
 昔のように身を引いて遠くから幸せを祈る道は、もう選ばない。

(結婚前に波乱の種は摘んでおかなければ)

 彼女が横にいない未来なんて考えられない。
 胸を突き動かすこの衝動に色をつけるとしたら、燃え盛る韓紅色だろうか。
 いつまでも色褪せない恋を紡いでいきたいと思った、初めての相手。
 この恋心だけは失いたくない。
 だからこそ、突如現れた伏兵に足下を掬われるわけにはいかない。

(奈江を幸せにする役目は俺だってこと、証明してみせますよ)

 婚約者の笑顔を思い浮かべながら、自分自身に固く誓った。