恋のパレード

君だけを愛していたい -4-

 夜になっても、あたしはまだ桐生院家にいた。
 台風接近のため、急遽お泊まりすることになったからだ。
 実家への連絡も済まし、朝比奈くんと一緒に夕飯をご馳走になるまでは良かった。
 ただ、入浴後に紫桜さんが待ち構えていたのは予想外で。
 奥の一室に連れこまれ、一抹の不安が襲う。
 食後に別れた朝比奈くんは客室にいるはずで、助けは期待できない。
 軽く身構えていると、紫桜さんは満面の笑みで言った。

「これまでのお詫びも兼ねて、我が家の自慢のエステをご堪能くださいませ」

 アジアテイストの部屋はよくよく見ると、スパを思わせる造りで。
 モダンな雰囲気に馴染んだ女性スタッフに案内されるまま、着替えさせられて。
 あたしは自宅エステの施術を受けることになった。

「奈江様。チョコレートスパはいかがでした?」

 施術後、あたしたちは角部屋へと場所を移して。
 いろんな種類の花に囲まれた小さな温室で、ふたりきりのお茶会を開いていた。
 外は嵐だったが、花の香りが憂鬱な気分を吹き飛ばしてくれて。
 彼女がお気に入りの場所だと言っていたのも頷ける。

「……初めての経験でしたが、チョコで肌がしっとりするなんて不思議ですね」
「でしょう? カカオの香りによって幸福ホルモンが分泌され、免疫力アップやストレス解消にもいいのですって」

 液状のチョコレートを全身パックされたときは、戸惑いが隠せなかったけれど。
 ベタベタすることもなく、ダイエットにも効果的らしい。
 体中に広がるチョコの香りを思い出し、あたしは顔を綻ばした。

「とてもリラックスできて贅沢な時間を堪能できました」
「それは何よりですわ。女性にとって、美への追求は永遠のテーマですからね」

 紫桜さんはそっと瞳を伏せた。
 血行が良くなった薄く色づいた頬と、潤った唇は艶めかしくて。
 同性から見ても、彼女は女としての魅力に溢れていた。

(こんな子を拒むなんて、朝比奈くんの目が節穴としか思えないんだけど……)

 つい眉間に皺を寄せていると、静かな声がした。

「けれど、いくら努力しても好きな人に振り向いてもらえなければ、意味ないですよね」

 自嘲気味に言う姿は、勝気のお嬢様の面影はなくて。
 紫桜さんはカモミールティーには口をつけず、カップを両手で包みこむ。

「本当はわかっているんです。翼様がわたくしを諦めさせるため、あなたを利用していること。……でもいつか、わたくしを選んでくれる日が来るかもしれない。それは一年後か十年後かわかりませんけれど。可能性が少しでもあるのなら、諦めたくないのです」

 好きだから諦められない。
 それはシンプルな答えで、とても共感できる感情だった。
 しかし何度も断られて傷つかない人間はいない。
 現に今、彼女の指先はかすかに震えていた。

「……紫桜さん」
「だいたい、あんな安ぽっい演技で騙されるわけないでしょう。あなたたちが真に愛しあっていないことなど、誰が見ても明らかですわ」
「す、すみません」
「何の弱みを握られているか存じませんけど、奈江様も大変ですわね。ですがもう、わたくしを欺く必要はないのです」

 きっぱりと言い切られ、あたしは口を噤む。
 紫桜さんは何かを吹っ切るように、窓の外に視線を転じた。

「今日でわたくしの我が儘もお終いです。タイムリミットが来てしまいましたから」
「……どういうことですか?」
「同じ状況にある奈江様ならご理解いただけると思いますが」

 含みのある言い回しに、まさか、という言葉が口で空回りする。

「もしかして、縁談ですか……? でも、それなら断れば済む話では」
「……いいえ。今回の話だけは蹴れないのです。これは桐生院家の存続に関わる重要な案件ですから。翼様への未練はたらたらですが、いつまでも子供ではいられません。家族と自分の夢を天秤にかけるような愚かな真似、桐生院の名が泣きますわ」
「紫桜、さん……」

 あたしの瞳には、ぽろぽろと大粒の涙を流す彼女が映っていた。
 恋心を断ち切れない辛さが、伝わってきて。
 見ているこっちが胸を締めつけられるようだった。

「申し訳ありません。少し目が霞んでしまいましたわ。どうかお気になさらないで。これはわたくし個人の問題ですから。……きっと、時間が解決してくれるはずですから」

 紫桜さんは涙を拭い、おそらく今できる精一杯の笑顔を浮かべていた。

        ......

 あれから就寝の挨拶を交わし、あたしは用意された客室に戻っていた。
 しかし、睡魔がやってくる気配はなくて。
 窓に背中を預け、叩きつけるように降る雨音に耳を澄ます。

(全然、雨が止む気配はないわね)

 外の嵐を横目で見ながら、先ほどの会話を回想する。
 紫桜さんの心は、まるで不純物が一切ない氷の結晶のように感じた。
 透き通るように穢れを知らない、純粋な想い。
 これまで、彼女は一途にたったひとりだけを見つめていた。
 いつか振り向いてくれる日を信じて。
 だけど、自分の気持ちを押し殺すことを決めざるを得なくて。

(そんなのって……あんまりじゃない)

 家族を守るために身を引くことを選ぶ、それは尊い決断だと思う。
 とはいえ、引き換えに自分の幸せを諦めなければいけないのは、納得がいかない。
 他に何かいい方法がないのか、と考えてしまう。
 自分が甘えた考えだというのは百も承知だ。
 でもやはり、誰かが犠牲になるのは仕方ない、と割り切ることもできなくて。

(あたしが彼女の立場だったとしたら……先生を簡単に諦められる……?)

 そこまで考えて、自分にはできない、とすぐに結論づける。
 今更、彼がいない未来など選べない。
 それほど、先生の存在は心の中で大きくなっていて。

(こんなに好きなのに。最近は先生と目も合わせていないのよね)

 こんなところで何をやっているのだろう、と自分を責める。
 と不意にノック音がして、思考を一時中断した。
 誰だろうと首をひねってると、声が続く。

「常盤先輩。僕です」

 慎重にドアを少し開けると、朝比奈くんがふわりと笑う。

「こんばんは。実は眠れなくて、ちょっと話でもどうかなと思って」
「朝比奈くんも?」
「ええ。……お邪魔してもいいですか?」
「いいわよ。どうぞ」

 ドアを大きく開き、彼を招き入れる。
 ベッド脇にあるテーブル椅子を勧めると、朝比奈くんはゆっくりと腰を下ろした。

「今日は紫桜のせいで、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「ううん。別に大丈夫よ。台風は仕方ないことだし、泊まらせてもらって却って感謝しているところだから」
「でも、そもそもは勝負を挑んだあいつが原因ですし……」

 あたしはベッドに腰かけ、首を横に振る。

「気にしないで。あれはあれで楽しい時間だったから」
「そうですか?」
「もちろん。桐生院家のご令嬢と白熱した試合をするなんて、滅多にない機会だもの」
「先輩がそう言ってくれるなら、僕も幼馴染として嬉しいですけど……」

 朝比奈くんがそれにしても、一旦言葉を区切る。
 それから椅子から立ち上がって歩き出すのを、ぼんやりと眺めていた。

「……え?」

 それは突然の事で。
 気がついたときには、視界が反転していた。
 瞬きを繰り返し、どうして天井を見ているんだっけ、と考える。
 その答えが出ないうちに、目の前に影が落ちる。

「こんな時間に、あなたを好いている男を部屋に上げるなんて。……先輩も無用心ですね」

 ギシリと軋む音がする。
 朝比奈くんが身を乗りだし、あたしの顔の横に手をついたからだ。
 彼に肩を押され、そのまま後ろに倒れこんでいる現在。
 自分を見下ろす朝比奈くんは、無表情のまま呟く。

「常盤先輩。僕じゃ駄目ですか?」
「……朝比奈くん?」
「式が来月だということは知っています。でも、今のあなたはまだ自由です。年が離れた婚約者よりも、僕の方が先輩のそばに長くいられます」

 彼が更に顔を近づけたため、逃げるべく身をよじる。

「ちょ……ちょっと近いってば」
「悪いですけど、僕は本気です。だから常盤先輩も僕のこと、真剣に考えてください」

 言い募る声は、どこまでも真っ直ぐで。
 あたしも誠実に答えなければいけない、と強く思う。
 今は誰かを好きになる嬉しさも苦しさも、痛いほど分かるから。

「……ごめんなさい。あたしは……朝比奈くんを先生以上に愛せない」