恋のパレード

君だけを愛していたい -5-

「みのりは今日どうするの?」

 あたしの質問に、帰り支度をしていた彼女が顔を上げる。

「仕上げたい作品もあるし、部活に行くよ」
「一緒に行ってもいい?」
「うん、もちろん!」

 放課後の美術室は特別棟の一階にある。
 日の当たらない部屋は、年中冷え切っているようで。
 ここだけ切り離された別次元みたいに、空気が独特な気がする。
 だがみのりがドアを開けた先には、いつもの厳かな雰囲気はまるでなかった。

「……あれ、今日は随分と多いのね?」
「たまにはこういう日もあるよ。引退した先輩が受験勉強の気晴らしを兼ねて、指導してくれたり、おしゃべりしに来たりとか」
「へえ、そうなの。何だか拍子抜けしちゃった」

 堅苦しいイメージが強かった部活なだけに、和気藹々とした様子は変な感じで。
 けれど、気さくに笑いあう部員たちは皆楽しそうだった。

「じゃあ、私は勝手にやるから。常盤ちゃんは自由に見学して行ってね」
「あ、うん」

 みのりはそう言うと、画材道具を取りに隣の準備室へと消えた。
 後ろ姿を見送り、あたしはふう、と息を吐く。

(さて……朝比奈くんが部活に出ているといいんだけど)

 思い返すのは先日の出来事。
 ベッドに押し倒されたときは本当に焦ったけれど。
 結局、手を出されることもなく、彼はそのまま部屋を出て行った。
 そして嵐が過ぎた翌朝。
 三人で朝食を食べているとき、紫桜さんは彼にすっぱり諦めることを告げた。

(思えば、あのときから様子がおかしい気がするのよね……)

 学校で時折見かける横顔は抜け殻のようで。
 指輪のことを切り出すのに躊躇するくらい、何だか覇気がなかった。
 だからしばらくは、そっとしておこうと決めたのだけど。
 ここ数日を振り返り、あたしは眉尻を下げる。
 朝比奈くんからコンタクトは全くなく、さすがにちょっと心配になってきて。
 みのりに便乗して彼の様子を見に来たというわけだ。
 美術室を見渡すと、一番後ろの席に探していた人影を見つけた。

「朝比奈くん」
「……珍しいですね、常盤先輩がここにいるなんて」
「まあね。作品見せてもらってもいい?」
「……ええ。どうぞ」

 彼が上半身をずらしたので、横からキャンパスを覗く。
 そこには小鹿が不安げな瞳で、暗い森の奥を見つめている絵が描かれていた。
 幻想的な色使いは文化祭と同じだった。
 違うのは、この絵からは悲しみや不安しか伝わってこないこと。

(見ていると辛くなってくる絵ね……)

 思っていたことが顔が顔に出てたのか、朝比奈くんが弱々しく説明する。

「ちょっと筆が乗らなくて。何回書き直しても、満足のいく出来映えにならないんです」
「……そう」
「スランプの原因を紫桜のせいにしたくはないんですけど」
「彼女を選ばなかったこと、後悔してる?」

 朝比奈くんは一瞬の沈黙の後、まさか、と否定した。
 その声はしっかりとしたものだったので、あたしは安心して話し出す。

「紫桜さんの結婚相手、いい人だといいわね。家同士が決めた結婚でも、時間をかけて想いを育めばいいんだし」
「……あの。結婚って何の話ですか?」
「お家存続のため、断れない縁談を受けるとか。だから朝比奈くんのことを諦めるって……もしかして知らなかったの? 幼馴染だから、てっきり耳に入っていると思っていたけど」

 彼の沈黙は肯定と同義で。
 しかし、それ以上は部外者が口を出すべきじゃない気がして。
 あたしはもう何も言えなかった。

        ......

「失礼しました」

 カラカラとドアを閉め、職員室を後にする。
 朝一に命じられた仕事は、クラス全員のプリントを集めることだった。
 しかし、白紙が数名いたことから期限はお昼までに伸びた。
 そんな訳で、プリントの山を担任に押しつけに来る羽目になったのだが。

(ふう。とりあえず任務完了、っと)

 食堂から戻る生徒や教師とすれ違いながら、あたしは教室に向かっていた。
 お昼休憩だからか、廊下には笑い声が飛び交う。
 その声を縫うように歩いていると、前方に先生の姿を見つけた。
 思わず歩くスピードが急激に落ちる。

(……どうしよう。ここであからさまに避けるのはマズいわよね……)

 方向転換しようとした足を何とかねじ伏せ、そのまま直進する。
 お互いの顔が見える距離に縮まったところで、向こうから声がかかった。

「こんにちは、常盤さん」
「……こんにちは」
「ちょうど良かった。これから少しお時間いただけませんか?」
「すみません。あの、急いでいますので……」

 あたしは俯きながら答える。
 てっきり追及の声が被さるかと思ったけど、先生は無言のままで。
 沈黙が気まずさに拍車をかける。
 彼を直視できず、あたしは失礼します、と掠れた声でつぶやく。
 そのまま逃げるように早足で立ち去った。
 踊り階段の隅に身を隠し、秋の風で茹で上がった頭を冷まそうとする。
 予期せぬ邂逅のせいで、さっきから呼吸が浅くなっていた。

(絶対……不信感を抱かれてるわよね)

 けれど、先生を前にすると、うまく取り繕うことができなくて。
 彼に見つめられると、洗いざらい白状してしまいそうになる。
 挙動不審のまま教室に戻っても、みのりに心配されてしまうかもしれない。
 しばらくの潜伏場所に適当な場所はないものか。

(……あるじゃない。彼に見つからないであろう、静かな場所が)

 あたしは妙案とばかりに、人気のない図書室へ足を向けた。
 目的地にたどり着き、上履きを下駄箱に突っこむ。
 去年改装された図書室は土足禁止だ。
 下駄箱にある上履きの数が、イコール、中にいる人数ということになる。

(今日はひとり、ね)

 重いドアを開け、貸し出し用テーブルを見る。
 いつも図書委員がいる場所には、離席中というプレートが置いてあった。
 そのとき、背後からドアを開ける音がして、何気なく振り返る。
 次の瞬間、あたしは声にならない悲鳴を上げた。
 そこには先生の姿があって。
 目が合うと彼は目元を細め、自分を追ってきたのだと分かった。
 先生が足を踏み出すたび、あたしは後ろに下がる。
 じりじりと距離を詰められた末、困り果てて身を翻した。
 途中、本に夢中になっている女生徒を横目で見ながら、最果ての棚に身を滑らす。
 しかし程なくして、先生がやってきて。

(やば……)

 目の前を塞がれてしまったら、他に逃げ道はない。
 彼が無言のまま歩いてくるのに従い、奧の壁際に追い詰められていく。

「……どうして避けるんです?」

 先生が囁くように問いかけ、口を真一文字に引き結ぶ。
 それを拒否と受け取ったのか、彼はため息をこぼし、両腕を壁際についた。
 腕の中に閉じこめられた形になり、左右の腕と先生を交互に見る。
 でも、今日の先生は容赦がなくて。
 不安が加速するあたしに注がれる視線は、凍てつくように冷たい。

「朝比奈くんと何かあったんですか?」
「……い……今は言えません」
「でしたら。いつなら教えてくれるんですか?」
「……そ、れは……」

 視線が逸らせない。
 後ろ手には壁が立ちはだかり、泣きそうになった。
 先生は壁についていた腕を下げ、震えるあたしの手をそっと握る。
 触れ合った指先から、甘い電流が走る。

「どうしても教えて下さらないのであれば、仕方ありません。今ここでキスしますが……構いませんよね?」

 ピュアな笑顔とは裏腹な、脅迫まがいの台詞に息を呑む。
 後ずさりするも、既に退路は絶たれていた。

「ま、待ってください。他にも生徒がいるんですよ……?」
「そうですね。誰かに見られたら懲戒処分の可能性もありますね」

 さらりと怖いことを事も無げに言われ、どうしていいか分からなくなる。
 しかし、ここで彼に飲まれるわけにはいかない。
 あたしは小声での説得を続けた。

「れ、冷静になりましょう。……ね?」
「…………では、話してくれるのですか?」

 先生は顔を近づけ、鼻先が当たるくらいまで迫ってきて。
 思考回路はとっくに制御不能になっていた。

(もうだめ……何も考えられない) 

 血液が駆け巡り、鼓動が早鐘を打つ。
 身動きできないでいると、ふと先生があたしの頬に手を伸ばした。
 頬にかかっていた横髪を掬われ、耳にかけられる。
 その一瞬一瞬が、とても長い時間のように感じられて。
 彼の動きひとつひとつに魅入っていた。
 どれくらい、そうして見つめあっていただろう。
 金縛りに遭ったみたいに固まったあたしの耳元に、彼が唇を寄せて囁く。

「……好きですよ」

 もう完敗だ。完全なる敗北だ。あたしは心の中で白旗を上げる。
 本当は、最初からわかっていた。
 彼には敵わないってこと。
 こんな風に迫られ、自白の臨界点まで追い詰められた日には。
 何もかも曝け出して、一刻も早く楽になりたい。
 意を決し、あたしは深く息を吸いこんだ。
 そして喉元まで出かかっていた言葉を吐き出そうとした、そのとき。

「あ……」

 幸か不幸か、授業開始を告げるチャイムがそれを遮った。
 先生も顔を上げ、鳴り響く音に耳を傾ける。

「っ……失礼します……!」

 あたしはそれだけを言い置いて、その場を後にした。
 教室に向かって走る間、心臓は壊れそうなくらい大きく振動していた。