恋のパレード

花嫁になる条件 -3-

 放課後、英語準備室の前であたしは深呼吸をしていた。
 それから意を決してドアをノックすると、すぐさま応答の声が聞こえてきた。

「失礼します」

 部屋の中には数人の教師と男子生徒がいた。
 幸い、自分のクラス担当の英語教師は離席中のようだった。
 あたしはまっすぐ、先生の机へ歩いていく。

「日下部先生。ここの問題が分からないのですが、良ければ見てもらえませんか?」
「……珍しいですね。常盤さんが質問だなんて」
「前に先生から勧められましたし、今度の検定を受けようかと思いまして」

 みのりから借りた英検のテキストを広げて見せる。

「それはそれは、僕も張り切らないといけませんね。どこですか?」

 先生がページに視線を落としたのを確認し、手に忍ばせていた付箋を添える。
 刹那、和やかだった先生に緊張が走った。
 他の教師がいる手前、あたしは困った風に眉尻を下げる。
 そして目を瞠った彼に追い討ちをかけるように、声のトーンを落とす。

「この問題なんですが」
「…………」
「先生?」
「……この関係代名詞がここの一文にかかっていて、こうやって訳せばいいんですよ」

 先生は大きめの付箋を貼り、シャーペンですらすらと書いていく。

「ああ、なるほどです」
「他に質問はありませんか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございました。失礼します」

 先生にお礼を言って、そのまま廊下に出る。
 周りに誰もいないことを確認し、先程のメモをテキストから取り出す。

(……土曜の正午。結納をしたホテルのロビー)

 そこに書かれている彼の文字を食い入るように見る。
 あたしが付箋で書いた質問はこうだった。

『ふたりきりで話がしたいです。いつなら会えますか?』

 電話やメールなど連絡を一切遮断し、徹底的に避けられていたのは分かっていた。
 そもそも、先生自身の意思による拒否なのかさえ不明で。
 だから回答を貰えるかどうかは賭けだった。
 けれども、あたしの問いに答えてくれたことが何よりの答えだと思う。

(たぶん、先生に嫌われたんじゃなくて……きっと誰かの指示なんだわ)

 それが分かっただけでも一歩前進だ。
 先生の付箋を小さく折り畳んで、そっと両手で包みこんだ。

        ......

 先生との約束である土曜日。
 奧埜は母親の付き添いで朝から出ていた。
 メイドに頼みこんで、あたしは数時間だけ外出の許可を取りつけてきた。
 タクシーから降りてロビーに出向くと、既に待ち人の姿があった。
 急いで彼の元へ向かう。

「お待たせしました」
「……部屋を取っています。そちらでお話を伺います」

 事務的な口調に、ズキンと胸が痛む。
 それから先生はさっさとエレベーターに乗りこんでしまい、あたしは慌てて後を追った。
 乗りこむや否や、ドアが閉まって沈黙が降りる。

(先生……もしかして怒ってる?)

 いつもとは違う態度に戸惑いを隠せない。
 これまでの関係がガラガラと音を立てて崩れていくような錯覚を覚えた。
 胸がざわざわとして落ち着かない。
 やがて扉が開き、先生の先導で奥の部屋に辿り着く。

「どうぞ。こちらです」
「……ありがとうございます」

 促されるまま、部屋の中に足を踏み入れる。
 あたしはソファに腰をかけ、先生は距離を取って窓際の椅子に座った。
 その距離感が今と彼との関係なのかと思うと、心が冷えていくような気になる。
 先に口を開いたのは先生だった。

「ご用件は……聞くまでもないですね」

 諦めたような声色に、あたしはもう自制が効かなかった。

「……先生は……何とも思っていないの? あたしと結婚できなくなることに、何の未練も感じていないの? だからそんなに冷静なの?」

 畳みかけるように言うと、先生はゆるく頭を振った。

「そんなことはありませんよ」
「だったら、どうして……電話もメールも全然返ってこなくて……っ!」
「それに関しては本当に申し訳なく思っています。実は祖父から釘を刺されていまして、迂闊な真似ができなかったんですよ」
「……何と言われていたんですか?」
「俺からの連絡は一切禁ずると。それがお互いのためだと」

 やっぱり、と心の中で呟く。
 先生にとって、優先すべき事柄は御祖父様との約束で。
 分かりきっていたはずなのに、どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。

「あたしたちは離れる運命にあるんでしょうか。……そんなの嫌です……」
「そうですね。でしたら、駆け落ちでもしましょうか」
「か……っ……かかか駆け落ちって」

 あたふたしていると、先生がくすりと笑う。

「駆け落ちは冗談ですが……奈江は難しく考えすぎです。僕たちの関係が教師と生徒に戻るだけですよ。あの料亭の前日までの関係に戻るんです」
「――――え?」

 まるで、授業で説明するような平坦な口調だった。
 そのことが信じられなくて、信じたくなくて。

「あなたが結ばれるべきなのは俺ではないんです」

 止めの一言に頭が真っ白になった。
 気づけば、勢いに任せて悲しみをぶつけていた。

「先生以外の人なんて……そんなこと言わないで。先生がそばにいてくれないと、心にぽっかり穴があいたみたいで。あたしの心が求めているのは先生だけなんです!」
「奈江。気持ちは嬉しいのですが」
「……っ……」
「どうか分かってください」

 感情の振り子は激しくなる一方で。
 張り裂けそうなくらい心が痛いと主張している。
 だけどそれ以上に、目の前のことに意識を取られていた。

「…………どう、して」
「今は納得できなくても、いずれきっと分かる日が来ます」
「どうして……そんな顔で言うんですか?」
「どんな顔でしょう」
「先生の方がよっぽど辛そうな顔です。嘘をつくなら、もっと平然にしてくれないと意味ないですよ……?」

 ありのままを伝えると、彼の瞳が揺らいだ。
 さっきから泣きそうになっているのは先生の方だった。
 やがて、先生は観念したように言葉を吐き出す。

「すみません。俺が未熟でした」
「……先生はあたしのことが嫌いになりました? 二度と顔も見たくないぐらいに?」
「そんなわけないでしょう」
「だったら!」
「奈江……落ち着いてください。俺たちは所詮、政略結婚の駒に過ぎません。婚約が白紙になった以上は一緒にはいられません」

 頑なな意見に、あたしは声を震わせた。

「それが……先生の本心ですか?」
「常盤財閥ご令嬢との婚姻は、あなたが思っている以上に多くの思惑が関わっています。一介の教師がどうこうできる話ではありません。……いずれ、あなたにはふさわしい身分の方が現れるでしょう」
「――――でしたら。今日のこの場は『迂闊』ではないのですか? あたしは先生にとって簡単に諦められる相手なんですよね。だったら、どうして危険を冒すような真似をしてまで会ってくれたんです?」

 絞り出すように言うと、先生は困ったように目を伏せた。

「……簡単に言えば、俺もそろそろ我慢の限界だったということです」
「どういう――」
「あなたに会いたくて仕方がなかった」

 聞き間違いかと思った。
 けれど、気づいたら先生の腕の中にいて。

「こうして抱き締めていると、もう二度と離したくない気分になります」
「……先生?」
「俺はあなたにひどいことをしています。何も言わずに遠ざけて結果、奈江を苦しませた。でも本心では、今もこうしてあなたを求めずにはいられないんです」

 抱きしめられる力が一層強くなり、先生の苦しさが伝わってくるようだった。

「好きです。ずっと好きでした。……あなたが一年のときから」

 熱烈な告白にあたしは呼吸をするのも忘れていた。

「結婚するのは、もうあなた以外には考えられない。それだけ愛しているんです」

 切々と語る顔はひどく辛そうで。
 見ているこっちが居たたまれないほどだった。

「でも祖父の命令は絶対なんです。逆らえない」
「…………日下部先生、今はあたしだけを見てください」
「奈江?」
「今ここにいるのはあたしたちだけです。他に誰もいません。だから……」

 先生の背広の裾をギュッとつかみ、背伸びする。
 彼の唇へ、自分のそれを押し当てた。

        ......

「っぁ……はぁ、んんっ」

 触れた先から溢れてくる快感に耐えつつ、先生にしがみつく。
 ベッドの上で抱きあう格好で揺さぶられ続け、混じり合う玉の汗。
 彼の愛撫を受ける身体は熱っぽくて。
 あたしの意識は途切れかけていた。

「は、ふ……やっ……も、だめ」
「もっと見せてください。その瞳も、艶っぽい声も今は俺だけのものですから」
「んん……せ、んせ……あぁんッ」

 そのまま身体を倒されて彼がおぶさる。
 角度を変えながら、繋がった部分が深くなって。
 狂おしいほどに責められて、何度も高みへ上り詰めていく。

「や……ぁああっ」

 今までにないくらいの快楽に抗う術はなくて。
 もう、何度達したか分からない。
 ゾクゾクと震える身体を優しくさすられ、それだけで再び興奮の波が押し寄せる。
 彼が求めるまま、淫らになっていく自分。
 じわじわと侵食する官能的な感覚に溺れていく。

「……はぁっ……やんっ、おか、しいの、……いつもと全然、ちがくて」

 まるで、自分が自分でなくなるような。
 いつもより早く絶頂を迎えるのも、彼とこのまま繋がっていたい欲求に駆られるのも。

「奈江が俺を感じている証拠ですよ」
「ゃあっ……そう、なん……ですか……?」
「今日は一段と締め付けてきますし、……俺ももう駄目みたいです」

 途端に動きがさらに激しくなる。
 薄い膜越しに、彼の熱が放たれるのを薄れゆく意識の中で感じた。

        ......

「もう時間ですね」

 先生の一言で、夢から覚めた心地になった。
 あたしに与えられた僅かな自由は、もう間もなく終わりを迎えようとしていた。
 こんなに離れがたいのに、運命はどこまでも残酷で。
 彼との恋は、許されない恋になってしまった。
 けれど気持ちを抑圧しようと思うほど、先生への思いが膨れ上がっていく。

「……泣かないでください」

 いつの間にか、眦から涙が頬を伝っていて。
 先生の指先で涙を拭われるまで気づかなかった。
 胸を疼く痛みを忘れるほど掻き抱く腕に、すっぽり顔を埋めた。
 先生のそばにいたい、ただそれだけなのに。
 彼の愛を独り占めする資格は、あたしにはもうなくて。
 このまま時間が止まればいいのにと思う。

「……少しだけ」
「え?」
「少しだけ、待っていてくれますか? あなたのために……いえ、俺たちの未来のためにまだできることはあると思うんです。確約はできませんが、最後まで足掻いてみます」

 部屋に入ったときとは違う、意志の強い眼差しを注がれて。
 あたしは静かに頷き返した。