恋のパレード

花嫁になる条件 -5-

「はあ、はあ……」

 勢いよくダッシュしたせいで息が上がってしまった。
 深呼吸を繰り返し、呼吸を整える。

(……あたしは常盤家の娘! こんなところで臆してどうするの!)

 自分に喝を入れ、震える手で進路指導室のドアをノックする。
 少しの間があった後、どうぞ、という声が返ってきた。
 そーっと中を覗くと、奥の椅子に座っていた先生と目が合う。

「よかった。伝言に気づいてくれたんですね」
「……日下部先生」
「さ、どうぞ。お掛けください」

 後手にドアを閉め、あたしは着席した。

「さて、何からお話ししましょうか」

 先生はのんびりとした口調で両手を組む。
 その顔は実に穏やかなもので、焦りと不安で余裕のない自分とは正反対だった。

「…………あの。その前にまず、確認しておきたいことがあるのですが」
「何でしょうか?」
「先生が教師を辞めるという話は……本当ですか……?」

 嘘だと言ってほしい。
 そうでなければ、あたしは……。

「ええ、その通りです。今年度いっぱいで教職から退くことになります」
「それが取引の条件だったからですか?」
「……朝比奈くんから聞いたんですね」

 ぽつりと呟く声の後、先生の目元に陰りが横切る。

「先生は、本当にそれで後悔しないのですか?」
「ええ。教師にこだわる必要もないですし、それで奈江と結婚できるのなら後悔はないです」
「嘘ですね」
「…………」
「第一、あたしはそんなの望んでいません。今の自分を捨てるような真似、先生にして欲しくありません」

 よりによって、先生に学校を去る決意させてしまうなんて。
 彼をそこまで追い詰めてしまった責任を感じ、あたしの心はぐらぐらと傾いていた。
 本当は、彼もしくは日下部会長を説得するつもりだった。
 だけど今日、苦悶の表情を浮かべる先生を見ていたら。

(あたしは……先生から離れたほうがいいのかもしれない)

 自分がそばにいるせいで、大好きな人を苦しめるぐらいだったら。
 この結婚が彼の足枷になってしまうのであれば。
 辛い選択だけど、迷ってる暇はない。
 奥歯を食いしばり、息を大きく吸いこむ。
 けれど春にこの部屋で会話したときと同じく、先に言葉を発したのは先生で。

「――――俺の考えは変わりません」
「えっ?」
「あなたを諦めたら、それこそ一生後悔します。常盤奈江さん、俺と結婚してください」
「……っ……」
「何があっても、俺があなたを守ります。その証として、これを受け取ってくれませんか?」

 コトン、と机に置かれたのは小さい箱。
 先生がゆっくりとそれを開くと、プラチナの指輪が姿を現した。

(……結婚、指輪……)

 ごくりと喉を鳴らす。
 これを受け取ってしまえば、もう後戻りはできない。
 彼のそばにいたいという夢は叶う。
 でもそれは同時に、彼がようやく手に入れた日常を奪うことを意味する。
 教師という職業は若い彼が願った夢だったはず。
 それを今、あたしのせいで手放そうとしているのだ。
 
(他に何かいい方法はないの……?)

 彼が苦しまずに、ふたりとも幸せになる方法は、何か。

「奈江?」

 先生が顔色を窺うように見ている。
 咄嗟に指輪に手を伸ばしたい衝動を必死で堪え、あたしは言葉を絞り出した。

「…………ごめんなさい。あたしにはこれを受け取る資格はありません」

 今の状況をひっくり返すことができない無力な自分。
 到底、彼の妻になる資格はなかった。

        ......

 朝晩の寒さが肌に染み渡る季節。
 落ち葉が重なり、街路樹の葉も綺麗に紅く色づいていく。
 自室から見える外の風景はすっかり秋一色で。
 だが鮮やかな紅葉でさえ、空虚な心の隙間を埋めることはできなくて。
 あたしは窓際に寄りかかり、そのまましゃがみこむ。

(あのとき指輪を受け取らなかったこと、後悔していないと言ったら嘘になるわね)

 しかし、何度も襲うのは自分の発言を取り消したい衝動。
 そのたびに首を振り、悪魔の囁きを振り払う。

(……だめだめ! 誰かに守ってもらうだけじゃ、先生を幸せにできないわ)

 弱気になってしまう自分を叱咤する。
 と、そこに規則正しいノック音が意識を現実に戻す。

「奈江お嬢様。お客様が見えられています」

 平日の夕方に訪問客とは珍しい。
 というより、彗以外に電撃訪問するような知り合いがいただろうか。

「一体、どなた?」
「桐生院紫桜様と伺っております。どちらにお通ししましょうか?」
「え……紫桜さん?!」

 バンっ! と勢いよくドアを開けると、奧埜は真顔で頷く。

「はい。なんでも火急の用事だとか。淑女の大事な話があると仰っていましたが」
「…………ここに。あたしの部屋にお通しして」
「かしこまりました」

 数分後、部屋を訪れたのは制服姿の紫桜さんだった。
 長い亜麻色の髪を揺らし、上品に腰を折る。

「ごきげんよう。奈江様」
「……お久しぶりです。ともかく、中へどうぞ」
「お邪魔いたしますわ」

 優雅にソファに腰掛ける彼女を見つめ、あたしは口を開く。

「それにしても、突然お越しになるから驚きました」
「事前に連絡を差し上げずに訪問してしまい、申し訳なく思います。居ても立っても居られなかったものですから」
「ところで……火急の用件とは?」

 奧埜が置いていった紅茶を啜り、紫桜さんは目を伏せた。

「翼様から聞きましたわ。家の事情に振り回され、婚約相手と結婚できないかもしれないと……。お互い、苦労しますわね。普通の家に生まれていれば、こんな風に苦しむこともなかったでしょうに」
「…………そうでしょうか」

 迂闊にも心の声を出してしまい、あたしは口を押さえた。
 コトン、とソーサーを机に置く音がする。

「あら。違うと仰いますの?」
「紫桜さんの言いたいことはわかります。ですが、この家に生まれなかったら先生と婚約することもなかったと思います」
「なるほど、それは一理ありますわね」

 これまで財閥令嬢という身分に振り回されてきたのは事実で。
 どうして自分だけがこんな目に、と何度思ったことか。
 その考えが変わったのは、あのとき。
 先生と料亭で再会したときから、あたしは彼に少しずつ惹かれて。
 今までの苦労は彼と結婚するためだったのだ、とさえ思うようになって。

(その彼を――あたしは拒んでしまった)

 心の底から好きだからこそ。
 彼を不幸にするぐらいだったら、自分が身を引いたほうがいい。
 たとえ、あの瞬間に彼を傷つけたとしても。

「……もういいんです。あたしでは彼を幸せにすることはできない、と今回はっきりしましたから。だから結婚できなくても……」
「奈江様」
「…………」
「そうやって自分の心に鍵をかけ、一生の恋を諦めてしまうのですか?」

 彼女の声は、揺らぐ心に深く突き刺さった。

「奈江様の想いは、簡単に諦められる程度のものだったのですか?」
「いいえ、いいえ……。それは違います」
「でしたら。まずは顔を上げてください。俯いてばかりでは、状況は変えられません」

 視線を上げると、紫桜さんが立ち上がった。
 そして向かい側に座るあたしの前で膝をつき、両手を強く握りしめた。

「……大丈夫です。諦めない限り、手遅れのことなんてありません。一緒に考えましょう。ふたりが幸せになる方法を。わたくしは奈江様の味方ですわ」

 その真摯な申し出に、あたしは小さく頷いた。

        ......

 好きになった人は教師で。
 両親が決めた家柄の御曹子だった。
 はじめは政略結婚の相手として、気持ちを通い合わせてからは生涯の伴侶として。
 これからの未来を一緒にしていくはずだったのに。
 結婚を目前にして、それは叶わぬ夢になってしまった。
 このままだと遠くない未来、先生以外の人と結婚しなければいけなくなる。
 もし、それがあたしたちの運命だというのなら。

(そんな運命なんて……あたしが変えてみせる)

 朝のティータイムを終えて、窓辺の丸テーブルを見やる。
 そこに飾ってあるのは、修学旅行で先生に選んでもらったオルゴール。
 硝子で作られた天使は朝日できらきらと輝いて。
 先生の優しい声を思い出し、心がじんわり温かくなっていく。

(この恋を思い出にしたくない。まだ、あたしたちは始まったばかりなんだから)

 奧埜に見送られ、先生がいる高校へと向かった。