恋のパレード

花嫁になる条件 -7-

「失礼しました」

 担任との進路相談を終え、下駄箱へ向かう。
 留学の準備は着々と進んでいる。
 婚約の件も無事に元通りになったし、先生とも毎日のように電話で話している。
 留学については驚かれたものの、一応は納得してくれたみたいで。
 英語教師ならではの助言は助かることも多くて、彼がついていてくれるなら安心だ。

「常盤さん」

 聞き慣れた声がして、単語帳から視線を上げる。

「……あ、日下部先生。どうしたんですか?」
「おすすめの参考書があるんです。ちょっとだけいいですか?」
「はい、もちろんです」

 後についていくと、先生は狭い資料室の中に入っていく。
 不審に思いながらも中に入り、ドアを閉める。
 けれど、なかなか室内の明かりが点く気配はなくて。

「せ、先生? 参考書ってこんなところにあるんですか?」

 薄暗い中を歩いていくと、不意に抱きしめられた。

「……静かに」

 先生の吐息を近くに感じ、息が詰まる。
 久しぶりの抱擁に不覚にも呼吸が乱れてしまう。
 でも浮かれている状況じゃない、とできるだけ小声で言った。

「あ、あの……二人きりはお祖父様との約束に反しますから」
「今は学校の中だから大丈夫ですよ。禁じられているのは学外でしょう?」
「そうですけど……でも」

 こんなところを誰かに見られたらと思うと、そわそわと落ち着かない。
 それに、先生がこんな方法をとるのは予想外で。
 いくら放課後とはいえ、慎重な彼らしくないと思う。

(……先生、なにか焦ってる……?)

 仮にそうだったら原因はひとつしかないだろう。

「もしかして、留学に反対でした?」
「そんなことはありませんよ。動機がどうであれ、自分の可能性を最大限に伸ばすという意味で、留学はとてもいい決断だと思います」
「……そうですか」

 ほっと安心したのも束の間、顎をくいっと持ち上げられた。
 至近距離には哀愁に満ちた瞳があって。

「というのは教師としての建前です。ここからは教師ではない、日下部彬個人の意見として聞いてください」

 何を言われるか読めず、あたしは身が竦む思いで次の声を待った。

「本当は行って欲しくなどありません。ここに、俺のそばにいて欲しい」
「……あ……」
「ここで俺がどれだけ説得しても、その決意は変わらないのでしょうか。それともまだ間に合うのでしょうか。……俺の声は、どうしたらあなたの心に届きますか……」

 弱りきったような声色に、言葉が返せない。
 すがるような眼差しはそのまま足元へと落ちた。

(先生にこんな顔をさせたいわけじゃない……そんなつもりじゃなかった)

 しかし、彼を苦しめているのは紛れもなく自分だ。
 ふたりで笑いあう未来のために選んだことで、大好きな人を困らせていて。
 本末転倒なんじゃないかと考える。

(本当に彼を置いて、離れ離れになって、最後は幸せになれるの……?)

 一緒にいるにはこの方法しかないと思っていた。
 だから寂しいという気持ちを押し殺して、今まで耐えてきた。
 そしてこれから先、今以上に耐えないといけない。
 それはあたしだけじゃなく、彼にも我慢を強いることになるわけで。

「…………ごめんなさい」
「それは、俺の気持ちには応えられないという意味ですか?」

 しばらく逡巡した末、こくりと頷く。
 もう今更、後には退けない。

「あたしのやり方は間違っているのかもしれません。でも、先生を好きな気持ちは誰にも負けません。だからちゃんとした結果を出して、日下部会長にも認めて欲しいんです。先生への愛の形はどうあっても変わらないってことを」

 言った後でしまった、と後悔した。
 だって、先生が目を瞠ってそのまま動かなくなってしまったから。

「……そ、そんなわけで。失礼しますっ」

 なんてことを口走ってしまったんだろうと、勢いよく体を反転させる。
 しかし、ドアの向こうへ逃げる前に先生の腕が引き止めた。

「こらこら、どこへ行くんですか?」
「だ、だって。恥ずかしくて……」
「逃がしませんよ。言い逃げは許しません」

 ゆっくりと先生に向き直ると、にこやかに微笑んでいて。

「大丈夫です。俺もあなたから離れるつもりはありませんし、何があろうと絶対に守り抜いてみせます。安心してください」
「……は、はい……」
「それに俺をこんなに溺れさせておいて、今更ひとりで逃げようなんて許しませんよ」
「おぼ……?」
「奈江しか見えていません。奈江だけですよ、こんなに心が掻き乱されるのは。だから、俺だけを見ていてください」

 情熱的な口説き文句に、あたしの心はすっかり捕らえられてしまった。

「おまじないをかけましょうか」
「え?」

 先生の顔がどんどん近づき、唇に彼の吐息が吹きかけられる。
 けれど、ここが学校だということを思い出し、あたしは及び腰になる。

「やっ、あの。ここじゃダメですってばっ」

 後ずさりすると、再びぐっと引き寄せられた。
 彼の広い胸板に両手を置いて、必死に逃れようと身を捩る。
 だが、腰に回された腕によって逃げることは叶わない。
 いつになく強引に迫られ、胸の高鳴りは大きくなるばかりだった。
 もうほんの数ミリ、という距離に目をぎゅっと閉じる。

「……?」

 ほんの一瞬の出来事だった。
 でも触れたのは彼の唇ではなくて。
 キスよりもっと、とんでもないものを貰ったような気がする。
 ふっくらとした厚みとは異なる感触。
 唇よりも温かな、湿り気を帯びた正体がすぐには分からなくて。
 あたしは瞼を忙しなく動かし、あらゆる可能性を吟味する。
 そして頭の中で弾かれた答えに驚愕した。

「あれ、お気に召しませんでしたか?」
「……っっ」

 一気に顔が火照る。
 さっきの余韻がまだ残っていて。
 キスよりもイケナイコトをしている感覚に苛まれてしまう。
 彼の舌があたしの唇をなぞっただけなのに。
 普段とは違う行為を受け、つい連想してしまうのは彼と体を重ねるときの時間。
 そんなことを学校で考えてしまう自分が恥ずかしくて。
 羞恥心で視線を合わせられずにいると、先生があたしの頬に触れる。

「ああでも、これだけじゃ全然足りませんね」
「……はい?」
「奈江。目を瞑って」

 言われるまま瞼を閉じる。
 すると、今度はちゃんとしたキスが降ってきた。
 重なり合った唇から先生の思いが溢れてきていた。

        ......

 目の回るような忙しさのせいで、時間は矢のように駆け抜けていって。
 とうとう出国の日がやってきた。

「常盤ちゃんなら、どこでも元気でやっていけると思うけど。体には気をつけて」
「うん……みのりこそ、難波くんと仲良くね」
「あはは。ラジャーです」

 みのりはおどけた仕草で敬礼して見せる。
 文化祭以降、友達以上彼氏未満という宙ぶらりんな関係だったふたり。
 じれったい彼らは先日ようやく付き合い始め、やっと難波くんの思いが報われた形だ。
 今までのことを振り返ると、どうしても感傷的になってしまう。
 けれど、それを差し引いても不思議なことがひとつ。

「っていうか、なんで朝比奈くんまでいるの……わざわざ搭乗口まで来てもらわなくてもよかったのに」
「それはアレです。後輩代表として」
「何が代表なのよ」
「細かいことはいいじゃないですか。それより、そろそろ時間なんじゃないですか?」

 ゲートで待っていた列は、だいぶ減ってきていた。
 離陸時間を考えると、あたしも最後尾に並ばないといけない頃合だ。

「それじゃ、もう行くわね」
「いってらっしゃーい。帰国するときは連絡してね」
「もちろん。お土産も買ってくるから」
「えへへ、楽しみにしてる」
「……今日は来てくれてありがとう。またね」

 お見送りの人影の中に、先生はいない。
 一番会いたい人と別れすらできないのは、ひどく悲しくて。
 泣かないと決めていたのに、油断したら涙がこぼれてきそうだった。

(泣いちゃダメ……強くなるって決めたんだから)

 そして朝一番に受信した文面を思い出す。
 先生から送られてきたのは、待っています、と一言だけのメールだった。
 短い言葉の中に込められた思いが、今にも溢れてくるようで。

(これは別れじゃない。だって、あたしたちはまた出会うんだから)

 数年後、また恋をするんだ。
 教師という職業を得て輝いている日下部彬先生に。
 あたしは大空に旅立つ飛行機を横目に、未来への一歩を歩き出した。
 この苦しいほど愛しい恋心を抱きしめて。