恋のパレード

花嫁になる条件 -8-

 暦は如月下旬。
 先週まで単位認定会議でリストアップされた、一部生徒を対象とした補習が行われていた。
 教師陣の熱烈な指導の甲斐もあり、今年度の卒業生は晴れて全員が来月母校を巣立つ。
 卒業式までは三年生は自由登校となっている。
 そのため、校内は静かなものだ。

「こんにちは、先生。暇なんで来ちゃいました」

 他の学年が授業中の今。
 前触れもなく現れた訪問者は、我がクラスの生徒だった。

「……久しぶりですね、朝比奈くん。せっかくですから、お茶でも淹れましょうか」
「え、いいんですか?」
「これも担任の仕事ですから」
「いやいや。そこは可愛い教え子のためとか言ってくれても」
「そうですね……君は早々に推薦が決まって、優秀な生徒でしたからね。では、三年間頑張った労いにしましょうか」
「どうもです」

 他の英語教師は全員出払っている。
 俺は席を立ち、準備室奥の給湯室へ向かう。

「うわー。このソファって、こんなに座り心地よかったんですねー」

 お湯を沸かしている間、感心したような声がした。
 生徒が座る機会は滅多にないため、彼の声が浮つくのも頷けた。
 ふと朝比奈くんを見やると、彼の目線はソファ横の本棚に注がれていた。
 そこは数々の専門書が並べられ、教師たちが持ち寄った共有の資料棚となっている。

「気になる本があったなら、好きに見てもいいですよ」

 茶葉を入れた急須に熱湯を注ぐ。
 数分蒸らし、温めた湯のみへ緑茶を淹れる。

「いやー……どれも難しそうな洋書ばっかりですね。おかげで手が伸びないというか、見ているだけで満足というか」
「英文学科に受かった生徒が何を言っているんです。……さ、どうぞ」
「勉強は春からしますよ。いただきます!」

 奈江が外国へ旅立った翌春。
 俺が初めて担任を受け持ったクラスには彼の姿があって。
 縁あって二年間、担任として成長を見守ることになったわけだが。

(早いもので彼も卒業……ですか)

 窓越しに見える庭園には、赤や白の花が咲いている。
 冬に彩りを添える梅の花が綺麗なうちは、桜の蕾が綻ぶのはまだ先だろう。

「常盤先輩はお元気ですか?」
「ええ、まあ。電話では元気そうでしたよ」
「…………その様子だと、本当に会っていないんですね。超遠距離恋愛の秘訣、僕にもご教授頂きたいぐらいです」
「別に大したことは何もしていませんよ」

 時差があるため、そこまで頻繁に連絡はできなくて。
 はじめは毎日だった電話も、数日や一週間に一回など減ることもあった。
 それを埋めるように、サプライズで荷物が送られてきたり、同封されていた手紙と写真に嬉しくなったり、遠距離ならではの楽しみもあったが。

「ここまで耐えてきたから、さぞ先輩の帰国が待ち遠しいんじゃなんですか? あ、でも数年ぶりだと、さすがに不安とか緊張したりするのかな」
「どうなんでしょう。会ってみないと分からないですね」
「……そっか、それもそうですね」

 朝比奈くんはしみじみ呟く。
 回想するように遠くを見つめる彼に、前から気になっていた話題を向けてみる。

「そういえば、君の方こそどうなんですか? 毎日のように、婚約者から式の日程について詰め寄られていると耳にしましたが」
「げ。……なんで先生が知っているんですか」
「たまたま聞いただけですよ。散々待たされてきたから大学卒業まで待てないとか、何とか」
「もしかして仕返しですか? 先輩にちょっかいを出していたから」

 心底嫌そうに言われ、俺は苦笑する。

「違いますよ。確かに敵対することもありましたが、今はそんなこと思っていません。さっきのは人生の先輩として、ちょっと話したかっただけです。春は何かを始めるのにいい季節ですから、これを機に真剣に彼女のことを考えてみてはどうかと」

 できるだけ真摯に伝えると、彼の表情が変わった。
 けれど目を丸くしたのは一瞬で、また何かを考えこむように俯いた。

「…………わかりました」
「すみません。出過ぎたことを言いました」
「いえ、いつまでも逃げてばかりはいられませんし。……常盤先輩が決断したように、僕もけじめをつけなくちゃですよね」

 そう言う朝比奈くんは、吹っ切れたような顔になっていた。

「君が考え抜いた答えなら、きっと彼女に届くと思います」
「……余裕でいられるのも今のうちですよ。先生が羨ましがるくらい、僕だって幸せになってみせますから」
「それは楽しみですね」

 俺たちは授業終了のチャイムが鳴るまで、昔話に話を咲かせた。

        ......

 月日は流れ、季節は移ろいゆく。
 朝比奈くんが卒業してから、さらに一年が過ぎた。
 そして、卒業生を送り出す春がまた巡ってきた。
 休日の午後、俺は父さんとの待ち合わせのため、展望レストランに来ていた。
 メインディッシュに舌鼓を打ち、ワインも程よく喉に流しこんできた頃。
 必然的に、会話の話題は自分の婚約者に移っていた。

「いやあ、あのときは驚かされたね」
「……止めてくださいよ。父さんが会長室に連れていって、どうするんですか」
「はっはっは。過ぎたことをぐちぐちと言うものではないよ」
「開き直らないでください」

 真剣に言い募ると、父さんは更に楽しげに笑う。

「いいじゃないか。結果オーライというやつだ。それに、もうじきだろう?」

 そう、婚約者の留学は来月で終わりを迎える。
 長かったこの数年も、振り返ればあっという間だったように思う。
 しかし奈江にとっても、そうだったかは分からない。
 電話越しに聞こえる声はいつも明るかったが、そのときの表情は想像の域に過ぎない。
 ビデオ通話は会いたくなるから、という理由でしてこなかった。
 強気な彼女のことだ。
 きっと、心配をかけさせまいとしていただろう。
 容易に想像つくからこそ、こっちも言及はできなくて。

「それは結果論です。もし違う男と結婚してみせろとかだったら、どうする気だったんですか。俺はそんなの耐えられません」
「……奈江ちゃんのことになると、彬は本当に面白いね」
「だから笑うところじゃないです」

 くつくつと笑う父さんの相手をするのも疲れ、はあ、と盛大なため息をつく。

(待っているだけというのも結構……辛いですね)

 抱きしめることも、近くで見守ってあげることもできない。
 できるのは、ただ信じて待つことだけだ。

「それにしても、彬はこんなにも愛されていて羨ましいね。妬けてくるよ」

 父さんの眼差しが優しいものになり、俺はすぐに言葉が返せなかった。
 照れ隠しに、せいぜい息子としての虚勢を張ってみせる。

「……それはそうでしょう。俺を幸せにできるのは彼女だけなんですから」
「うわ、そうきたか。まったく、つくづく親の期待を裏切る二人だね。まさか、ここまで波長が合うだなんて想定外だよ。お互い、結婚に対して乗り気じゃなかったはずなのに」

 確かに、はじめはその通りだった。
 婚約者だと見せられた写真は、自分が教鞭を執る高校の生徒が映っていて。
 祖父との約束を一瞬忘れるぐらい、彼女の写真を見入っていた。

(……彼女が候補に選ばれたことは、今でも信じられない)

 隠しておくはずだった秘めた恋。
 祖父へ恩義を返すことを誓った心は、ぐらぐらに揺れ動いていた。
 彼女が自分以外の男と結婚することは想像したくなくて。
 必死だった、と思う。
 歳の離れた男と結婚をさせられようとしている彼女。
 どう足掻いても、いずれ強制的に結婚させられるのは火を見るよりも明らかで。
 自分を好きになってもらうしかない、と気づけば行動に移していた。
 そうして、やっと気持ちを通い合わせることができて。
 幸せを掴みかけた矢先に、あの株価暴落のニュースが飛びこんできた。

(本当にタイミングが悪い出来事だった。せめて、結婚してからだったら……こんなことにはならなかった)

 今は常盤財閥の融資もあり、少しずつだが業績は改善の兆しを見せている。
 日下部グループは事業部の見直しや、海外工場の縮小、国内の人件費削減など色々手を打ってきた。だが問題はまだまだ山積みで、昔のように盛り返すまで時間はかかるだろう。
 しかし、祖父と父親が何とかしてくれると信じている。

「強いて言うなら、これが俺たちの運命だったんですよ」
「惹かれ合うのが?」
「――――そう、だと思います」

 自分で言いながら気恥ずかしくなる。
 今まで散々婚約者に囁いてきた言葉だが、客観的に捉えると少々むず痒い。
 でも、それを聞いていた父さんはからかったりはしなかった。

「案外そうかもしれないね。現に君たちは続いているわけだし」
「…………」
「あれ、どうして黙るのさ。言っておくけど、僕は味方だよ?」
「いえ別に……。ちょっと意外だっただけです」
「ひどいなあ。まあいいけど。奈江ちゃんのために、これから最後の準備があるんだろう?」

 父さんの瞳に楽しげな色が宿る。

「……ええ。突然の留学で驚かされましたからね。俺と同じくらい驚かせるつもりですよ」
「大人げないねえ。誰に似たんだか」
「何を言っているんですか。父さんには負けますよ」
「それ、誉めてる?」
「いいえ。まったく」

 冷たく言い切ると、えー、と不満げな声がした。
 一体いつから、子供みたいに口を尖らせるようになったのだろう。
 母の死後、家庭を顧みずに仕事人間になった父親。
 周囲には気さくな振る舞いをしていたが、本心では氷のように冷たい感情を抱えていて。

(ああ……奈江に会ってからか)

 留学の件以降、父さんは柔らかくなった気がする。
 息子の進学や婚約のときでも、これまでは淡々と役目を果たしていただけだったのに。
 奈江が外国へ行ってからというもの、たびたび食事の誘いを受けるようになった。
 希薄だった家族の絆さえも直してしてしまう彼女。
 改めて、すごいなと感心してしまう。

「そうだ。奈江ちゃんが帰国したら、三人で母さんの墓参りに行こう」

 突然の提案は想像だにしていないもので。

「え……仕事は?」
「何言ってるのさ。母さんにも息子の嫁さんを紹介しないとダメでしょ。……僕だって今までのことは反省しているよ。父親失格だった。だから、これからは仕事だけじゃなく、ちゃんと家族も大事にしたいんだよ」

 これまでのことを『なかったこと』にはできない。
 授業参観や運動会を見に来てくれた祖父とは違って、彼は家族を二の次にしてきた。
 しかし、未来は必ずしも過去とイコールとは限らない。
 変わろうとしている人を否定する理由はなかった。

「……そうですか。では、予定を空けておきます」
「胸を張って墓前に立てるように、僕も及ばずながら尽力させてもらうから」
「期待しています」

 数年ぶりに再会する彼女にもう一度、伝えなくてはいけないことがある。
 会えなかった期間のこと、そして……これからのこと。

(願いはただひとつ。奈江が頑張ってくれた気持ちに応えたい)

 だから前だけを見ていればいい。
 彼女と歩む未来のために。