Chapter 1 ---壱

 それは五月晴れで清々しい日曜日のことだった。

「お姉ちゃん。それってあまりにひどくない?」
「あら。どうして? 私は幸せを掴んで、ようやく結婚までこぎ付けたのよ。いっそこの努力を褒めてほしいところだわ」

 心外だわ、という言葉を存外に含ませて切り返す姉の言葉。
 だが、ここで怯むわけにはいかない。

「だからって……フツー女子高生を追っ払う? 何も新婚生活をここでしなくてもいいじゃない! あたしはどこで暮らせばいいのよ?!」

 そう、問題はこれだ。転勤のため両親は海外に旅立ってしまい、この春、中小企業に就職した姉との二人暮らしがはじまった。
 けれど、まだ二ヶ月も経っていないというときに出たのがこの話。
 結婚は三月には決まっていて、来年六月に式場を予約しているのは知っている。
 でも、こんなのは聞いていないよ?
 生憎と親戚は他県でそうそう行き来できる距離じゃない。
 自分の頭のデキはそういいほうじゃないから、編入試験なんて難しいだろうし。
 ていうか、そもそも転校する気もないし。
 だー姉よどうしてくれよう。

「何も野宿しろなんて言っていないじゃない。仁志くんを頼ればいいでしょ」
「はぁ? 何でそこで仁志が出てくるわけ? あいつだってまだ学生じゃん」
「何言ってんのよ。そりゃ、まだ大学生かもしれないけど。あんたは高校生、あっちは大学生。ほら、問題ないでしょ?」
「――――大有りよっ!」

 まったく理解できないよ、この人の思考。

「……でも、彼女とは昨日別れたらしいわよ?」
「え? あ、梓お姉ちゃん……。もしかして昨日会ったの? あいつと?」
「だって、ちゃんと了承を頂いておくのが保護者の務めでしょ? て訳でもう決定事項だから、これ。とっとと荷物まとめてね」

 それが姉の台詞ですか。
 だぁー、両親にこの姉の悪行を洗いざらいぶちまけたい……!

「いいわよ、分かったわよ。あたしもお金ためて一人暮らししてやるんだから!!」
「そうしたいのなら止めないけど? ただ、お年玉をすぐに使っちゃうような人ができるか微妙なところだけど」
「……お姉のあんな話やこんな話を、未来の旦那様に吹聴してもいいんだ?」

 わずかながらの抵抗を試みる。
 しかし姉は動揺するどころか、平然と笑顔を返した。

「ええ、してみれば? うちの旦那はそんなことぐらいで動じないから。何たって愛されてますもの」
「はー、へー、そりゃあお熱いことで」
「あんたもいい人見つけなさいよね」
「……るっさいな」

 あたしは彼氏いない暦16年だ。
 それはいまだ更新中である。
 もう放っておいてよ、なるようになるしかないんだから。
 しかしこれ以上、お姉と口論しても家から出て行く現実は変わりそうにない。
 そう悟り、おとなしく部屋で荷造りをするべくリビングを出ようと踵を返す。
 すると、今思い出したようにお姉が呟く。

「そうそう、佐奈? 仁志くんに迷惑かけちゃ駄目だからね。いくら幼馴染だからって、お世話される立場になるんだから、その辺をちゃんとわきまえなさいよ。ちゃんと言われたことは素直にするのよ?」
「……はいはい! あたしはどーせ子供ですよ!」

 その言葉にお姉はわざとらしくフウ、と溜め息をついた。

「佐奈。いい? あんた、仁志くんに嫌われた時点で家から追い出されるのよ? そうしたらどうなるか分かってる? 路頭よ、路頭」

 何かがブチンと切れた気がした。
 原因ってだれ? 
 そんなの決まっている。

「元はといえば誰のせいよ! 根本的な原因はお姉ちゃんでしょーが!!」
「だから、それは仕方がないでしょ。あんただって子供じゃないんだから、そのくらいは理解して協力なさいよ。ちゃんと晩御飯のおすそ分けくらいはしてあげるから」
「要らないわよ、そんなの! 自分で作れる!」

 捨て台詞を残し、だだっと自分の部屋に飛び込む。
 バタンという大きな音が響いた。
 背中をドアにもたせ、どくんどくんと波打つ心臓の音が耳に響く。
 よりにもよって、あいつの家に居候する羽目になるなんて。
 いびられるに決まっている。
 彼は昔からあたしをからかいまくって遊んでいた。
 あいつの中でのあたしの存在なんて、単なるおもちゃ。
 それ以下はあってもそれ以上なんてない。
 仁志の本性を知る人なんて限りなく少なく、恐らく彼の弟とあたしぐらい。
 ヒミツを知るのはたった二人。
 でも、それより問題なのはあたしの心の方で。
 不覚にも好きな人だったのだ、彼――高峯仁志は。
 ああ姉よ、一体どうしてくれようか。

        ☆

 引越し作業は早いほうがいいということで、話を持ち出された次の土曜になった。
 つまり、今日。
 本音をこぼせば、まだ心の準備ができてないんですけど?
 けれどあたしの心境なんてお構いなく業者の手によって運ばれていく自分の荷物。
 それを横で呆然と見ていることしかできないなんて、悲しいような寂しいような。
 自分の気持ちなのに、なんて表現したらいいのか分からなかった。
 どの単語も今の気持ちを表すのにしっくりくるものはなくて。
 しばらくして、あっという間に綺麗さっぱりなくなった自分の部屋。
 こんなに広かったんだ、って漠然と感じてしまう。
 今まで物が溢れていただけに、まるで違う人の部屋みたいに閑散としていた。
 って今日からここはもう違う人の部屋になるんだよね。
 複雑な気持ちでいると、不意にノックする音が聞こえた。
 振り返ると開いたままのドアに寄りかかるように立っていたお姉の姿があった。
 無言でコップを差し出され、中身がカフェオレだと分かって両手で受け取る。

「あとはあんただけね」
「妹を荷物のように言わないでよ」
「まあまあ、それ飲んだら行くわよ。12時には行くって言ってるんだから」

 そう言い残し、お姉はすぐに部屋を後にした。
 再びひとりポツンと取り残され、コップを持ったまま窓辺に立つ。
 フリルのカーテンが掛けられていたそこは、今は味気なく外の風景を見せていた。
 カフェオレに一口つけて眼下を見下ろす。
 整った花壇、マンションのエントランス。
 離れると思うと名残惜しくある見慣れた景色。
 ここから出なければいけない日がこんなにも早くなるなんて。
 ……思いもしなかった。
 少なくとも、高校卒業まではいるはずだった場所との別れ。
 しかし、生憎と感傷に浸る時間はないみたい。
 あたしは一気に飲み干したコップを台所に置くと、お姉が待つ駐車場へ向かった。

        ☆

 がちゃり、とドアノブが回される音とともに発せられたのは低い声。

「梓さん?」

 ひょっこりと顔を出したのはよーく見覚えのある顔。
 隣の幼馴染が実家から出て行って2年、殆ど顔を合わすことも無かったが。
 こうして顔を見てしまえば否応にも昔の記憶がまざまざと蘇ってきて、2年間の歳月なんて関係ないのだと実感させられる。
 お姉はにっこり笑顔を浮かべて、あたしの荷物を両手に抱えたまま玄関を上がる。

「はぁい。来ましたよー、お邪魔しまーす」
「……お邪魔します」

 ちらりと仁志を見ると、すぐに視線が交じり慌てて目を逸らす。
 別に冷ややかな目じゃなかったが、なんか合わしづらい。
 だって……ねぇ?
 どんな顔して会えというの?
 こんな奴を好きだった過去も忘れたいけど、でも好きになってしまったのは事実。
 それにしてもあたし、無事にやり過ごせるのかな、ここで。
 一抹の不安を抱えながらもリビングに通される。
 仁志からもう荷物は運んであると伝えられ、お姉から手荷物を受けとる。
 お……重い。
 よくこんなの持ってたなと驚いていると、お姉はあたしの頭をぽんぽんと叩いた。

「じゃあ、残りは佐奈一人でもできるわね? 私は帰るわ」
「……えぇ?! お姉ちゃん、もう帰っちゃうの?」
「当ったり前でしょー。今からうちの旦那が来るっていうのに」

 そう言うと、今度はあたしじゃなくて仁志に目を合わせていた。

「じゃあ。不束な妹ですけど、家事一般ならそれなりにできるから。じゃんじゃん使ってね。そいじゃー、佐奈のことは頼んだわ」
「俺も至らないところがあるかもだけど。仲良くやっていきますから、ご心配なく」
「仁志くんなら安心して預けられるわー。じゃあ、梓さんは帰りまーす」

 なんて、なんて薄情な姉なの。
 もうちょっといてくれたって罰は当たらないと思う。
 というよりもこの居たたまれない空気を読んでよ……っ。
 お姉は宣言通り、すぐに帰ってしまって。
 ドアの閉じる音が聞こえた瞬間、仁志は無愛想な顔で無言で鍵をかけていた。
 長年の勘で、こいつの化けの皮が剥がれたことを悟った。
 それは予想を裏切ることなく、あたしと弟しか知らない『いつもの仁志』が昔と変わらない口調で言った。

「佐奈。お前、これから俺ん家に厄介になるんだから。当然、飯炊きはお前の仕事だよな? ああ、不味かったら承知しないから」
「…………それが女の子に対する言葉?」
「あ? 何、俺に口答えをする気? 俺より年下のくせに」

 むかつく。
 年下だから何だって言うの?
 そっちだって、ちょっと早く生まれただけのくせに!
 しかも身長180cmなだけあって、どうあっても見下ろされるわけで。
 腹立たしい。こんな奴と同居だなんて。
 でも逆らったらそれなりの仕返しがあるわけで。
 記憶に新しいのは自分が謝るまで無視だったっけ。他にはゲームのデータ全消去、脅迫まがいのメールによるいびりとか。
 目覚ましにトラップ仕掛けられたときは、朝から心臓発作を起こすかと思った。
 今思い出しても最悪な思い出だらけだ。

「じゃあ、台所勝手に借ります」
「おー。怪我はすんなよ。面倒くさいから」
「……余計なお世話! 仁志はあっち行っててよ!」
「言われなくても」

 仁志は言葉通りすぐに自分の部屋に引きこもった。
 はぁ、疲れる。なんでこんなに疲れなくちゃいけないのよ。あー、もうっ。
 だけど考えていても何も始まらない。
 空腹もそろそろピークで、こっちも何か食べないと気が狂ってしまいそう。
 ひたひたとフローリングを歩き、キッチンへ向かう。
 白い壁に銀の流し台。
 心なしかウチより綺麗かも、なんて思ってみたり。
 引き戸にあるチューリップのワンポイントに目がいき、ついつい顔が緩む。
 だけど本来の目的を思い出し、冷蔵庫の取っ手をゆっくりと掴む。

「失礼しまーす……」

 人様の家の冷蔵庫だと思うと、若干の躊躇いがあるけど……。
 今日からあたしもここの住人。
 誰が怒るわけでもなく、そう自分に言い聞かせてぐいと手前に引っ張った。
 ささやかな覚悟とともに目の前に入った光景は素朴なものだった。
 牛乳とバターとジャム、それに調味料がちらほらとある程度。
 だけど一番目を疑ったのが。

「卵がない?!」

 病気になったときは卵入りの雑炊じゃないの?
 少なくともうちの家はそうだ。だからいつも卵はキープしてある。
 驚きの溜め息とともに冷蔵庫の扉をぱたんと閉める。

「ちょっと何よ、これ。……あいつ料理できるでしょーが。自分が食べる分は適当ってわけ? あー、もう駄目じゃない。栄養管理ぐらいちゃんとしなさいっての!」

 家にいるときつい出てしまう独り言。
 にしても、買い物行かなきゃ。
 でも……黙って行ったらヤバイよね?鍵もないし。

「初日にして波乱あり、か。だから嫌なんだってば、仁志のとこは」
「何か言った?」

 …………。
 振り返らなくても分かる。
 この家にはあいつしかいない。
 とりあえずとっさの苦笑いを浮かべて、おそるおそる振り返る。
 そこには予想通りの姿があり、軽くパニックになりつつも何とか口を開けた。

「え、あ、仁志?! いつからそこに……?!」
「いや、今仕方。ていうか、まだ作ってないのか? 佐奈に料理は早かったか」

 感慨深げに呟かれる一言。
 が、あたしの癇に障るのは十分だった。

「失礼なこと抜かすんじゃないわよ。だいたい何? 料理してないの? 冷蔵庫、ほとんどもぬけの殻じゃないのよ」
「あーそうか?」

 ぶっきらぼうな言い方で返す仁志の顔は至って冷静。
 それが更に腹立たしいんだけど。
 何か言い返してやろうと言葉を捜しているうちに、冷蔵庫の扉を開けていたかと思えば、ぱたんと閉じてこちらを振り返った。

「スパゲティぐらいなら作れんじゃねーの?」
「……それにしたって! 買い物ぐらい行きなさいよね!」
「作んのか、作んねぇのか、どっちか決めろよ」
「――――作ります」

 空腹もそろそろ限界だ。
 まずはお腹の虫を抑えないと、怒る気力すらなくなってしまう。

「で。スパゲティの具はちゃんとあるんでしょーね?」
「そこの棚を探してみろよ」

 言われるがまま、木製の食器棚の下にある開き扉の中をのぞく。
 確かにそこには、ぶっきらぼうに置いてあるパスタの麺とミートソースの素。
 まぁ、これで昼食にはあり付けるかしら。
 あとは晩御飯の買出しだけど――って?

「何してんの。……仁志……サン?」

 手で握っていたパスタの袋がするりと落ちた。

「そうそう。俺のことはそう呼べよ。年下のくせして呼び捨てにすんなよな」
「じゃなくて! これってセクハラじゃん! 何すんのよ、うら若き乙女に!」

 ついさっき。
 彼の手はおもむろにあたしの胸に当てられていて。
 ぴたりと寄り添うにようにして触れられた部分から彼の熱が直に伝わってきて。
 しかしそれも一瞬の出来事。
 その証拠に彼は自分が落としたものを既に拾って手に持っている。

「胸ねぇくせに言えた口か?」
「……あたしだって花も恥じらう女子高生なんだからっ。それをアンタ!!」
「だから、ちゃんと女として育っているかを確かめた訳だろ?」
「要らないっていうか頼んでないわよ、そんなこと!!!」

 必死で捲し立てると、一瞬にして空気が凍りついた。
 見れば、仁志の顔はもの凄く苛立った様子で。
 押し殺したような低い声が聞こえた。

「……大概煩いぞ、ここで痛い目見たいわけか」
「ぐ、痛いってば!!」

 あたしは顎を掴まれて身動きが取れない。
 それに、何よこの至近距離。
 間近にある幼馴染の顔に息を呑むが、拘束されていた手はすぐに解放された。

「いいか、これだけは言っておく。ここは飽くまで俺の家だ。っつーことは分かってるよな、俺に逆らうような真似はするなよ」
「……わ、分かったわよ」
「ならいいが、な」

 相変わらず俺様ってワケね。
 心の中で一人愚痴る。
 この圧倒的な威圧感は昔体験したものと何一つ変わらない。
 嗚呼、どうしてこんなことになってしまったんでしょう、お父様お母様。
 傷心の娘の心境で嘆くも天の助けなどなく、かくして幼馴染との同居が始まった。

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