Chapter 1 ---九

 すっかり日が暮れた中。
 忘れ物を取りに戻っていった中井くんを聡美と校門の前で待っていた。

「で、どうだったの? 昨夜の勉強成果のほうは」
「分かってる癖に。聞かないでよ。本当に凹んでるんだからー」
「まぁそーでしょうねェ。誰かさんは能天気に小テストの日をきれいさっぱり覚えていなかったようだし」

 聡美は事前に勉強をしていたため、それなりの結果を残せたらしい。
 だけど、あたしはというと………。
 もう次の中間試験に賭けるしかない危機的状況だった。
 否、そこでしか挽回する機会がない。
 さすがに範囲の広い今回は的を絞って覚えたのに。
 ことごとく外れてしまうとは……ついてないというよりも自分に非がある訳で。
 つい漏れてしまう溜息と被るように、後ろから忙しない足音が近づく。

「せんぱーい」

 何とも甘ったるい声。
 というか、前までは先輩のせの字も呼ばなかったくせに。
 苗字を呼び捨て、もしくは下の名前で呼ばれなれていたせいか、いざ先輩と呼ばれると変な気がした。それは、いつの間にか名前で呼ばれることにすっかり慣れてしまった、という証でもあるのだが。
 実際に「先輩」と呼ばれることで違和感を感じてしまうなんて。
 彼の呼び方が生活に定着していたとは思わなかった。
 なんとなく納得がいかなくて、校門から走ってきた後輩に渋面で問いかけた。

「中井くん、何?」
「そう、それ!」

 出し抜けに言われ、その言葉が何を指しているのか全く分からなかった。

「……は?」
「いつまでそうやって呼ぶつもり? 俺たちのご関係って他人行儀に言わなきゃいけないようなもんだったっけ?」
「…………」
「黙ってもダメ。ほら、ちゃんと呼んでよ」

 畳み掛けるように言葉を並べられ、つい唸る。
 だって、そういう呼び方がすごく難しい相手なんだよね。
 仮にも彼は部活の先輩でもある訳で。
 いろいろ考えてしまうと、どうしたって楽な呼び方を選んでしまう。
 返答に困っていると、傍で見ていた聡美が楽しそうに言う。

「ふーん。やっぱりまだ苗字止まりだったんだ。佐奈ってば。そりゃあ彼氏としては悲しいものよね」
「でしょ! 前々から言おうと思ってたんですけどねぇ。ていうかその前に気付いてもらえるかなーなんて淡い期待を抱いてみたり?」

 聡美と中井くん、二人の視線があたしに集まる。

「そんなこと言ったって。気になるもの?」

 呼び方ぐらい、そんなに言わなくても、そのうちできると思うし……。
 まだ自分の気持ちもハッキリしていない今、自分たちの関係を表す「呼び方」をしていい立場なのかどうかも微妙だと思う。

「そうね。きっと数ヵ月後には佐奈も彼女らしく、なることを期待したいわね。今のところは彼氏の腕次第かしらね?」
「…………意味、分かりかねるんだけど」

 聡美はまぁ頑張れば? と視線を寄越し、いつもの分かれ道で別れを告げた。

「じゃあ邪魔者はここでさよならね。佐奈、中井くん、また来週ね」
「うぃす。お疲れ様でした」
「もー、あとでメールするからね!」

 抗議のメールをね。
 聡美と別れた後、人気のない公園に来ていた。

「しつこいようだけどさ。俺の名前ってそんなに呼びにくい?」

 いつもよりトーンダウンした声に、ブランコの鎖を握る力を込めてしまう。

「呼びやすい訳ないでしょ? だって部活中は他にも部員がたくさん……」
「そんなの気にしなくていいじゃん」
「気にするの!」

 つい勢いよくブランコから立ち上がったもんだから、キィキィと金属音が擦れる音がしばらく続いた。
 中井くんは「ふぅん?」と余裕げな顔で立ちはだかる。

「じゃあ、言ってくれるまで許してあげないから。覚悟してね、美原先輩?」
「家に行かなきゃ、いいんでしょ……」
「あーそういう事言う? 場所って特に問わないんだけどね、何ならここでも俺は構いませんケド?」
「はあ? 場所をわきまえてよ、場所を!」

 いくら人気がないとはいえ、こんな公共の場所でなんて冗談じゃない。
 そう思って抗議したのだけど、中井くんはいきなり吹き出した。
 その反応から冗談を真に受けたあたしの言葉がツボにはまったのだということは、すぐに分かった。
 一気に頬が赤くなっていくのは致し方がない。

「中井くんは……」
「秀高」

 すぐさま訂正が入り、仕方なしに言い直して再び言う。

「……秀高はどうして彼女が欲しかったの?」
「…………へ?」

 口を開けてぽかんとした表情を見て、変な質問をしたのだと悟る。
 けれど後の祭り。
 一度言ったことはなかったことにはできない。
 言い直さなきゃと頭をフル回転させるが、その考えにストップをかけるように秀高の声が届く。

「よく分からないけど、俺の答えが必要なんだったら言うよ。俺は彼女が欲しいんじゃなくて、佐奈が欲しかった。一緒にいたいと思ったから。それだけだよ」

 嘘じゃないと分かる言葉に、掛ける言葉が思いつかない。
 今の自分は同じ事を答えることはできない。
 そのことが二人の距離感が違うことを決定的に裏付けていた。
 中途半端な気持ちのまま、彼女として彼との時間を奪ってもいいんだろうか。
 だけど、答えはいつも出ない。

「俺といることに何か不安でもあったの?」

 ……何がこんなにも不安なんだろう。
 今まで彼氏がいなかったせいか、どう接したらいいのか分からないのもある。
 それに中井くんとの関係は、思い描いていた始まり方とは違っていて。
 だから、何となく後ろめたい気持ちの方が勝っていた。
 とはいえ突き放すこともできずに、もどかしい思いだけが心を波打つ。
 秀高はどう感じているんだろう。

「ねぇ、あたしといて何か不安に思ったりしない?」
「不安……ねぇ」

 うーんと考え込む声がして、しばらくしてポツリポツリと呟く声が返ってきた。

「そりゃ誰しも不安はあると思うよ。昨日まではあんなに好きだったのに、次の日にはその気持ちは醒めてるかもしれないとか。俺の知らないところで違う男に声かけられてないかとか、気が付かないうちにすごく傷つけていないかとか。…………俺が感じる不安はこんな感じだけど。佐奈は?」

 その言葉ひとつひとつに好きだというメッセージがあって。
 ドキリとして息が苦しくなった。
 鳴り止まない胸の高鳴りは抑えきれず、あたしは秀高が好きなんだ、と思った。
 唐突に自覚した感情を、なんて表現したら伝わるだろう。
 今度は嘘じゃない、心から思った好きという気持ちを。
 伝えきれないかもしれない、けど伝えたい。

「あたしも、一緒。だけど今は一緒にいると不安よりも、安心の方が勝ってる」

 それが今の純粋な気持ちだった。

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