Chapter 2 ---壱

 試験週間に入り、放課後の部活動も当然休み。
 だから生徒の多くは早々と学校から去っていく。
 学校に残るのは期日までの用事があったり、先生へ分からないところを聞きに行ったり、と目的がある人に限られる。
 聡美は『どうせ彼氏と帰るんでしょ?』とさっさと帰ってしまった。
 生徒玄関前の中庭で一人待っていたら、待ち人はすぐに現れた。

「どうする? このまま帰る?」

 あたしがそう尋ねると、んー、と渋い返事が返ってきた。

「どうしたの? どこか寄るとこ、ある?」
「……自習室に寄っていいかな」
「試験勉強?」

 尋ねると、うん、と元気のない声が答える。
 どうしたんだろ、と思って秀高の顔を下から覗き込んだ。

「風邪でもひいた? 辛そうな顔だけど」
「表現するとそうなるのかな。テストまでにやることも沢山あって、もー頭いっぱいって感じ」
「あぁ。テスト前は課題増えるもんね」

 そして今、あたしたちは図書室の中にある自習室に来ていた。
 さすが試験週間とだけあって、いつもなら人気のない部屋は熱気に満ちていた。
 学生鞄から問題集とノートを数冊取り出し、机に広げる。
 横に座った秀高は、英語のプリントに早速シャーペンを走らせていた。
 つい感心して眺めていると、若干不機嫌そうな顔と目が合った。

「佐奈、英語得意? ここの訳し方が分からなくてさ。教えてもらえたら嬉しい」

 難しい顔の原因は分からない問題にぶつかったからだったみたい。
 しかし、自慢じゃないけども勉強は自分で精一杯の人間。

「いやあの、教えるのは苦手っていうか……」
「大丈夫だって。去年やった事じゃん」

 人間って不思議なもので、そのときはちゃんと覚えているはずの事も少し経てば記憶の端に追いやられて、すぐには思い出せない。
 だからこそ、復習は大事なんだろうなってしみじみ思う。
 英語は単語の意味を知らないと始まらない。
 それに加えて文法も覚えていないと、変な訳をすることもしばしば。
 一年前にこんな問題したっけ、という自分の記憶力に眩暈すら覚えてしまう。

「…………その顔はもしかしなくとも難しそう?」
「う」
「仕方ないか。佐奈も自分の勉強があるし」

 既に諦めきった声に、否定できない自分が歯がゆい。

「わ、悪かったわね。平均点並みの女で」
「別にそれが悪いとは一言も言ってないけど?」
「…………うぅ」

 そう言われたら何も言い返せず、おとなしく口を噤む。
 秀高は机に広がっていたあたしの数学Bの教科書を目の前に掲げた。

「時間も勿体ないし。佐奈はこれ、するんでしょ?」
「え、えと。うん」
「じゃあ、やろ。折角ここにいるんだし」

 周りに意識を向けると、囁きの声とペンを走らせる音がする。
 皆、ここに勉強に来ているのだと改めて感じた。
 秀高から教科書を受け取り、ノートを広げて問題に視線を落とす。
 授業でやった問題を思い出しながら記憶を新しくする。
 そうして、どのくらい経っただろう。
 少なくとも小腹が空くぐらいは経った気がする。
 シャーペンを握っていた手を自由にし、腕を上へと伸ばして姿勢を正す。
 すると横からノートをぱたんと閉じる音がした。

「お腹減ってもう無理。佐奈は?」
「うん、ぼちぼち空いた」
「今日はここまでにして帰ろう」

 時間も結構遅くなっているはずなのに、部屋にはまだ数人の生徒の姿があって。
 きっと家だと勉強が捗らないんだろうなとチラリと推測してみる。
 あたしたちは帰り支度を整えて、自習室を後にした。
 上履きを下駄箱に戻し、ローファーに履き替えて学年の違う秀高と合流する。
 それからどっぷり暮れた空を見上げた。

「勉強でこんなに遅くなるなんて信じられない、かも」
「そうだね。部活以外での理由ってそうそうないし」
「あるとすれば文化祭の後片付けのときね」

 一緒に校門を抜けて、自然に手を繋がれて歩く。
 これまで男の経験がないだけに。
 こんなちょっとした事でも、なんだか照れてしまう自分がいた。
 ……付き合ってるんだな、ってしみじみ思ってしまう。
 こうして温かい手に握られていると、なんだか落ち着くし。
 それから他愛のない話をしながら帰路に着いた。


 もうずっと前からここにいる錯覚を覚えるくらい、「ここ」に帰ることが自然になっていたことに少し驚く。
 玄関を上がり、そのまま廊下を抜けて居間を目指す。
 半開きになっているドアを開き、鼻腔をくすぐる嫌な臭いに眉根を寄せた。
 この臭い、……お酒くさい。
 家の主を捜そうと視線を彷徨わせると、場所はすぐに知れた。
 ソファにすっぽり埋もれた姿は明らかに酔いつぶれていた。
 成人してるし、飲酒は法的にも問題ない歳だから別にいいんだろうけど。
 今まで帰宅したときに、お酒を飲んでいる姿なんて見たことがなかったから珍しいと言えばそう。
 大学の付き合いにもなると、当然『飲み会』という名前で行われる集まり。
 それに対して口に出すような権利も当然、あるわけがない。
 でも、さすがにこのまま居間に放置するのもどうかという自制が働く。
 溜息を吐いて、押し入れから掛け布団を持ってきて仁志に被せた。
 ……全くもう、こんなに飲まなくたっていいじゃない。
 つい出た独り言で起きたのか、仁志の瞼がぴくりと反応した。
 かと思えば、視界がガラリと変わっていて。

「仁志……っ?!」
「煩い」

 そう言うや否や、ふっくらとした唇があたしのそれに重なる。
 次第に深くなっていく口付けに焦り、仁志の胸を力任せに押し退ける。

「もうっ酔ってんの?!」

 辛うじて引き剥がしながらそう言い放つと、ほのかに赤い顔が再び迫ってきた。
 ちょ……ちょぉっと!!
 あたしの狼狽に気にする素振りはなく、簡単に床へ押し倒されてしまう。
 背中越しに伝わるのはフローリングの冷たさ。
 そのことが今の状況が夢ではないことの現れに違いなくて。
 そして、至近距離から聞こえてくる声は幾分しっかりしたもので。

「俺が酔ってるわけねーだろ」

 〜〜〜〜酔ってるでしょうが!!!
 絶対に酔っている。
 ええ、声高に断言してみせますとも!
 だけどそんな確信をよそに、仁志の動きは素早くて。
 首筋に感じる生暖かい感触がして、早く逃げなければと思う。
 だのに床に固定された腕は抵抗しようと力を入れても、びくともしなくて。

「大人しく抱かれてろ」
「…………っ! バカじゃないの?! さっさと目覚ましなさいよ!!!」

 怒鳴ると、今まで拘束されていた腕の力がふっと緩んだ。
 今しかない、そう思い立ち仁志の下から抜け出す。
 そのまま居間から逃げ、自分の部屋に戻って後ろ背にドアノブを戻す。
 途端、気が抜けて膝を突いてしゃがみこむ。
 わなわなと震える手先をそっと唇へあて、余韻をなぞる。
 ……キス、……された。
 昔好きだった相手に。
 どうして、どうして、こんなに気持ちが揺れているの。

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