Chapter 2 ---弐

 いくら酔っていたからとはいえ、キスされるなんて思ってもみなかった。
 だって彼にとってあたしは、ただの子供。
 女として見られているワケなんてないと思っていたのに。
 現に昔、仁志本人から言われた言葉であるからこそ余計にそう思う。

 なのに…………どうして。

 いくら考えても出るはずのない答え。
 なぜ? その疑問の答えることができるのは、仁志本人しかいないのだから。
 直接聞いてみればいいんだとは、思う。
 でも素直にあいつが話してくれるかっていう点に於いて、会話にさえならない予感が極めて強い。
 そもそもあれは素面ではなかったはず。
 そうでなければ、おかしい。言動も、……何より行動も。
 酔っていたときのことを言及されても記憶がないと言われればそれまで。
 というより本人すら覚えていないことをわざわざ教えるのは、できれば避けたい。
 ならば今できることなんて、もう限られているじゃない。
 何もなかったように今までの日常を演じるのみ。
 結局ロクに一睡もできず夜を明かしたあたしは、キッチンでお湯を沸かしながら一人結論に至っていた。
 やかんがコトコトを音を立てはじめ、コンロの火を止める。
 コーヒーの粉と砂糖が入っているコップへお湯を注ぎ、湯気が立ち上り様子をぼーっと眺めていた。
 スプーンを出さないと……。
 そう思うのに、体が鈍っているのかすぐに動かない。
 さっきまでは眠いと思う余裕すらなかったのに、今は強烈な睡魔が襲ってきて。
 目をごしごしと擦り、眠りに落ちようとしている頭を起こす。
 そして閉じようとしていた瞼を開いたとき、居間のドアが開くのが見えた。
 人影はもちろん、同居人である仁志だった。

「……おはよう」
「ああ」

 ぶっきらぼうな物言いは常のそれ。
 何も変わらない、いつもの風景。……そのはずだ。
 だけど外見からだは分からない変化が、今あたしの心で起きている。
 思い浮かぶのは昨夜の、間近に迫った幼馴染の顔と吐息。

 だめよ、忘れなくちゃ。

 今この瞬間は心を無にしないと、いつも通りに振舞うことなんてできない。
 そう思い立ち、コップの中をスプーンでかき混ぜる。
 熱いコーヒーのコップを持って居間に行くと、案の定、仁志に視線で「俺の分は?」と向けられた。
 しょうがなくUターンして、まだ残っていたやかんのお湯を別のコップへ注ぐ。
 ブラックコーヒー主義は注ぐだけでいいっていうのは利点なのかもしれない。
 そんなことを考えながら軽く混ぜて、彼の元へ差し出す。
 無言で受け取る横顔は朝だからか無表情だった。
 ……せめてお礼の一言ぐらいは聞きたいもんだわ。
 と常であれば思うはずの反発心も今は二の次。
 まずは確かめないといけないことがあるのだから。
 仁志が座るソファの横に腰掛け、なんでもないように話題を振った。

「昨日は飲み会だったの?」
「ああ、昼から頭痛いくらい飲まされた」
「……よくあの状態でここまで帰って来れたわね」
「俺もそう思う。途中までは送ってもらったんだが」

 本人でさえ自覚するほどの通常の量を超えたアルコールを摂取していたのだ。
 ならば記憶が残っているなんてこともないはず。
 安心して少し冷めたコーヒーを口に運んだ。
 しかし、現実はそう甘くはなかったらしい。

「あの……な。夢かどうかが定かじゃないからできれば言いたくはないんだが、仮に現実だったとしたらお前がきっと悩んでいるだろうから」

 その躊躇いがちな言葉に体が凍りつく。
 仁志の言葉が表す出来事といえば、思いつくのは昨夜の事しかないというのに。
 聞きたくないという思いが、つい視線を横に逸らしてしまう。
 勘のいい、しかも昔馴染みでもある彼がその反応ですぐに見抜いてしまうことなど造作もないと分かっていたけど、どうしても目を合わすことができなかった。
 やがて低い声が横で聞こえた。

「その反応だと、やっぱり夢じゃなかったんだな」
「……どうして憶えてるの? 酔っていた、んでしょ?」

 振り返り仁志の顔を真っ直ぐ見ると、自然と声が掠れてしまっていた。

「それは……まぁ。ただの会話だったならともかく悪かった」
「………………」
「本当に、あのときは冷静じゃなかった。だから、俺といるのがイヤになったなら出て行ってもいい。梓さんにはちゃんと俺から話しておく」

 何を……言っているの?
 出て行けっていう事?
 そもそもどうしてそんな話になっているの?
 話についていけず、つい呆けていると凛とした声が現実へ引き戻す。

「決めるのは佐奈だ。俺じゃない」

 その声に、あたしは頭で考えるより先に口を開いて仁志に詰め寄っていた。

「仁志はどうなの? あたしがここにいて、今までと何か変わる点があるの?」
「…………佐奈がここにいるって言うなら今までと同じだ」
「だったら、ここにいる。あのときの仁志は酔っていた。ただそれだけ。……それならあたしがここを出て行く理由はないでしょ?」

 思ってもみなかった。
 出て行けと言われることが来るなんて、そしてこんなに心が苦しくなるなんて。
 拒絶されている、そう思うだけで心が蝕んでいくような感じに捉われる。
 あたしが帰る場所は既にここしかないのだから、そんなこと言わないで。
 そんな思いで仁志を見つめ返すと、折れたように了承を告げる言葉が耳に届いた。

「分かった。佐奈が決めたのなら俺が文句を言う事じゃない」

 何とか追い出されるという事態だけは避けれたらしい。
 ほっと安堵すると同時に、ようやく正常に戻った思考回路の中で素朴な疑問が湧いていた。

「でも。でも、一つ聞きたいんだけど………」
「何だ」
「もし、もしもよ? あたし以外の女の子が目の前にいたら同じ事、した?」
「………………」
「っていうか、なんで黙るわけそこで」

 訝しげな視線を送ると、明らかに嫌そうな顔を向けられた。

「お前なぁ。自分が何を聞いているか分かってて言ってるんだろーな?」
「な、何よ……?」
「聞いていいことと悪いことがあるって言ってんだよ。さっきの質問、俺が仮に肯定したらどうなんだ? お前はどう反応するつもりだったんだ?」
「…………それは」
「答えに詰まるって事は、相手も同じだって事だろーが。はい質問は以上! 終わり! お前もとっとと学校行け」

 強引に背中をぐいぐいと押され、玄関先へと追いやられた。
 てかまだコーヒーも飲み干してないし、それよりも鞄、いや制服すらまだ着替えてないのぐらい見れば分かるでしょうに!

 ったく何だって言うのよ、もうっっ!!!

 あたしの怒りの矛先たる奴はさっさと居間へと戻っていく。
 悔しいながらもその様子を見送ることしか、できなかった。

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