Chapter 2 ---参

 チャイムが聞こえ、チョークを黒板に走らせていた先生の手がようやく止まる。
 同時に次々へノートを綴じる音がして、チョークの粉を手で払う先生の低い声が号令を告げた。

「あー今日はここまで」

 がやがやと騒がしくなる教室の中、シャーペンを持った姿勢のまま溜息をつく。
 試験週間だというのに、心が浮ついていて授業に身が入らない。
 昨夜の出来事がまだ鮮明に記憶に残っていた。
 すぐに忘れろという方が無理な話だと思う。

 仮にも――相手が仁志ならば尚更。

 それに今朝の話も予想外だった。
 どうして出て行くっていう話になったのか、まるで分からない。
 突飛な発想としか思えなかった。
 普段からそんなことを思っていなければ出てこないと思う選択肢。
 もしかしたら、あたしは邪魔なのだろうか。
 悠々自適の一人暮らしに押しかけた訳だし、迷惑をかけてないと言えば嘘になる。
 いくら昔ながらの幼馴染とはいえ、お互いに成長した今は状況が色々と違う。
 考えれば考えるほど深みにはまっていく気がして、あたしは項垂れた。
 けれど不意に、スカートのポケットに入れていた携帯が震えた。
 短い振動を伝える音はメールの知らせを教えるものだった。
 スライド式の携帯を操作し、送信者の名前を確認する。
 差出人は秀高で、内容は自習になってラッキーとか他愛のない世間話。
 もやもやでいっぱいになっていたあたしは、その文面でつい笑ってしまう。
 一人でこんなに考えて込んでてもしょうがないかも、とついさっきまで深刻だった思いも今は少し軽くなっていた。
 開きっぱなしだったノートとテキストを机の中に仕舞い、椅子から立ち上がる。

「ごめん、聡美。英語のノート貸してくれない?」
「佐奈にしては珍しいわね。……高いわよ?」
「はいはい、安くしといて」

 そうして渡された聡美のノートをページをぱらぱらとめくる。
 相変わらず綺麗なノートですこと。
 カラフルに見やすくまとめられたページを真似しろと言われても、まず無理。
 せいぜい板書をそのまま写すことだけで精一杯。
 思わず感心してると、痛い言葉が飛んできた。

「今の時期に考え事してたら、本当に単位やばくなっても知らないわよ」
「もーだから借りてるんじゃん」
「まぁね」

 意地悪く笑われ、せめて単位だけは取ろうと密かに意気込む。
 最悪再テスト行きになったとしても。
 頬杖をついていた聡美はふと思い出したように言った。

「そういえばさ、佐奈の家って私まだ行ったことなかったよね」
「あーそうかも。結構バタバタで引越したし」
「今日、噂の幼馴染はいるの?」

 幼馴染と言われれば、当然仁志のことだよね。
 まだ記憶が鮮明な昨夜の出来事は……忘れなきゃいけない。
 あれはお酒のせいなのだから。
 それに、聡美には余計な心配させたくないから言わない方がいいよね。

「どうかな……アイツの予定なんて全然把握してないから。大学か、バイト行ってる可能性が高いとは思うけど」
「ふーん。でも家事は佐奈がやってるんでしょ? 何時ごろに帰ってくるとかは知ってるんじゃないの」
「ううん、知らない。あたしは家に帰ったらごはん作って、一人でも食べるし」

 その途端、聡美の顔が僅かに引きつったように見えた。

「じゃあさ、普段何を話してんの」
「えー普段? さあ、あまり会話らしい会話した記憶がないような……」

 命令口調であれしろこれしろ、と指示を受けることはあっても同居人らしい会話をしたことがあったかな。
 一緒に食べるときだって、二人ともテレビを見てたりするし。
 お互い昔からの付き合いだから、口に出さなくても何を考えてるか分かるし。
 或る意味、一番気を遣わなくていい相手とも言えるようで言えないような。
 けれども聡美にとっては予想外の返事だったらしく、珍しく憤慨した様子だった。

「ちょっと待って、それじゃ一緒に暮らしてる意味ないじゃん」
「だけど、同居するのは単にあたしがお姉から追い出されたからで。仁志からしたら、家事だけしてればいいだけのようなもんだと思うけど」

 実はなんで仁志があたしの面倒を見る気になったのか、まだ分からないんだよね。
 きっと、梓おねえちゃんが何か言ったからだとは思うけれども。
 聞いたところで二人とも話してくれないだろうから、何も聞いてないけど。
 今思えば、やっぱり不思議かも。

「ねえ、今日さ勉強しようよ。佐奈の家で」
「いいけど……目的は幼馴染みなんでしょ」
「そりゃあ、一回ぐらい拝んでみたいし♪ ついでに一緒に夕飯作れば楽でしょ」

 何だか丸め込まれているような気がしてならないけど、若干。
 後半は確かにそうかもと思って、秀高に今日は一緒に帰れない内容をメールで送っておくことにした。
 次の授業が始まる前には承諾した旨の返信が来ていた。

        ☆

「そうそう、この前美味しい珈琲店、見つけたんだ。試験終わったら行こうよ」
「ん、行く行く」

 聡美と他愛のない話をしながら、スーパーの袋を持って帰宅した。
 だけど、鍵を回して開けた玄関はいつもと少し光景が違っていて。
 来客が、来ていた。
 女物の靴はあたしが持ってるようなものじゃなくて、大人っぽさを演出する白いハイヒールだった。

 …………だれ? まさか昔の彼女とかじゃ、ないよね。

 顔を見合わせて、どうする? と目で訴えた。
 でもここで突っ立ってる訳にもいかないでしょと囁かれ、おそるおそる二人で足音を忍ばせて居間へと続く廊下を歩く。
 ドアの前まで来て、楽しそうな男女の会話が僅かに漏れてきて思わず足が竦む。
 けれど横にいる聡美に小突かれ、思い切ってドアノブを回した。
 ソファに身を沈めて寛いでいる来客は、あたしたちを見つけて笑顔で言う。

「あら、おかえりなさい。聡美ちゃんもお久しぶり。髪型変えた?」
「なんだ、お姉ちゃんか……」

 拍子抜けしたあたしの横で、聡美の持っていたスーパーの袋が派手に落ちた。

「……佐奈の幼馴染って……高峯仁志のことだったの?!」

 その場には似つかわしくない驚きの声が居間に響いた。

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