Chapter 2 ---四

 その、いつもとは違う雰囲気にその場にいた全員が聡美を注視していた。
 あたしはどうしたらいいのか分からなかったけれど、敵対する眼差しで仁志を見つめる聡美の表情は硬くて。
 僅かに震えている指先を見て、何かよっぽどの理由があるのだと感じた。

「聡美……仁志と知り合いだったの?」
「この人は先輩の元カレなの」
「先輩……って」

 あたしの呟きに聡美は仁志を見ながら答えた。

「水政優衣って言えば分かるはずよ」

 今度は仁志に皆の視線が集まる。
 けれど仁志は口を引き結んだままで、無言で聡美の視線を受け止めていた。

「佐奈には悪いけど、この人はあんなに尽くしてた彼女を簡単に捨てた男だよ。それもある日突然、一方的に。あれから優衣先輩は精神的にも参って拒食症になってた」

 その言葉に仁志の眉が僅かながら動く。
 それでもまだ沈黙を貫いたため、業を煮やした聡美の声が居間に響き渡る。

「この責任どう取ってくれるのよ!」

 今にも殴り込みそうな気迫に今まで傍観していたお姉が仲裁に入った。

「聡美ちゃん、ここは少し落ち着いて。話を聞く限り彼に責任がありそうだけど、仁志くんにも言い分はあるはずよ。それに今、その彼女はここにはいない。当事者にしか分からないこともあるわ」
「……確かに、その責任は俺にあるだろう。だが今は会ったところで、昔の嫌な過去が蘇るだけで何の解決策にもならないだろ」

 仁志の吐き捨てるような言葉がなぜだか胸に突き刺さる。
 あたしに向けられた言葉ではないのに、その冷たい表情が心に蟠りを残した。
 どうして胸が苦しいんだろ。
 自分の心なのにうまく制御ができなくて戸惑ってしまう。
 そうしている間に、仁志は席を立っていて居間を出て行くところだった。
 誰も呼び止める声はなく、その後ろ姿を見送る事しかできなかった。
 やがてバタンと静かに閉められたドアの音で、止まっていた時間が再び動き出す。

「聡美ちゃんも佐奈も。とりあえず座ったら?」

 立ち尽くしたままだったあたしたちは、お姉の言う通りにソファに腰を下ろした。
 テレビから再放送のドラマが流れていて、何気なく見やるとヒロインが浮気がバレたと思われる主人公に平手打ちをしていた。
 はらはらと大粒の涙を流す顔がアップで表示され、演技なんだろうけど胸に訴えてくるものがあって心が少し痛む。
 ……こういうのって被るとやだなあ。
 梓お姉ちゃんもそう思ったのか、傍にあったリモコンでバラエティ番組にチャンネルを変えていた。
 そして机の端に置かれていた白い箱を目の前に持ってきた。

「ケーキ買ってきたんだけど……二人とも食べない?」

 遠慮がちな声に、聡美は固い表情のまま言葉を返す。

「あ、はい。いただきます」
「……じゃあ、お皿とフォーク持ってくるね」

 あたしは立ち上がり、ついでにスーパーの袋を持って冷蔵庫に向かう。
 袋の中身を冷蔵庫へと移し、食器棚からお皿とコップを三つずつ取り出す。
 冷蔵庫から紙パックの紅茶を出してそれらをお盆に乗せた。

「お待たせー」

 席に戻ると、お姉と話してたせいか聡美の強ばっていた表情もだいぶ戻っていた。
 お姉は話しながらお皿にケーキを移していく。

「なるほどねー中学の先輩なんだ」
「佐奈は部活違ったから知らないだろうけど、水政先輩っていえば皆の憧れだったんだよ」

 その表情からきっと今でも尊敬しているんだと容易に推測できた。そんな先輩が傷ついていたら、やっぱり腹立たしいし力になれるならなりたいと思うだろう。
 またしんみりした空気が漂いはじめたが、ケーキのお皿が配られていくと自然と目がその様子を追っていた。

「せっかくだし食べちゃって。ここのお店、最近雑誌に載ってたところで同僚の中でも評判なのよ」
「へーお姉ちゃん太っ腹ー」

 机に並んでるケーキはどれもいつも食べるのより少し大きくて、きっとお値段もそこそこするのだろうと予想できた。
 味もいつも贔屓しているお店よりも美味しくて、嫌な事もすぐに吹き飛んでしまいそうなぐらいだった。
 だからだろう、聡美の顔にも笑みが戻るのにもそう時間はかからなかった。
 女同士だとついつい話に花が咲いて、時間はあっという間に流れていく。
 お姉のダンナから仕事が終わったというメールの着信音ではじめて時計を見た。

「……やばっ、晩ご飯の支度に間に合わないかも」
「あーもうこんな時間?」

 窓を見やると、もう真っ暗の闇が空を支配していた。
 帰り支度を手早くすませたお姉が車のキーを手にもって、聡美に視線を配らす。

「聡美ちゃんは? 近くに車置いてるから、良かったら送っていくけど?」
「あ、じゃあよろしくお願いします」
「はいはーい」

 慌ただしく二人が玄関を後にするのを見送り、一人で後片付けをし始める。
 メールの一つも寄越さない仁志は、今頃どこにいるんだか。
 でも考えたって時間の無駄な気がして、夕飯の準備にとりかかることにした。
 じゃがいもと人参、たまねぎを切って煮込めばできあがるカレーは考え事しながらでもそれなりの味になるのがルーの偉大さだと思う。
 一度、料理にバリエーションを広げようとしていたお姉が自家製ルーに挑戦していたけど、市販のルーになれた舌にはピンとこなかった。
 たまになら違う味もいいけど、やっぱり慣れた味が一番安心する。
 ちなみに美原家のカレーといえば二種類のルーを一つの鍋に放り込む。
 これを話したら聡美に怪訝な顔されたのだが、まぁよしとしよう。
 コンロの火を消し、一応味見をしておく。

「うん大丈夫。……あー、なんか思い出すとまた苛立ってきた」

 仁志の顔が浮かんできたせいで食欲なくなってきたじゃない。
 この怒りをどこにぶつけたものか……。
 考えあぐねいた末、鍋の中に調味料を足すことで鬱憤を晴らした。
 敢えて味見はせずに、そのまま居間のソファに埋もれる。
 やがてテレビの音が子守唄になって意識がまどろんでいくのを感じた。

        ☆

 ガタッという物音がして瞼を開ける。
 ぼやける視界の中、意識が途切れる前のことを思い出しながら身を起こす。
 時計の針は11時半をさしていて、どうやらうたた寝してたらしい。
 扉から仁志が顔を出したので、厭味を込めて出迎えの言葉を向けた。

「早かったわね」
「まぁな」

 空腹のあまり何も言う気は起こらなくて。
 カレーをお皿に盛り、遅い夕飯を摂ることにした。
 お鍋は下の方のをすくってあるので、自分の分は大丈夫のはずだ。
 安心して口に運んでいく。
 ところが横にいた仁志は不満げな様子で言った。

「……で、俺はまだ食べてないんだが」
「カレーで良ければお鍋にございますが?」

 不機嫌を露にして言い返すと、細く息を吐く音がした。
 無言のまま仁志が台所へ向かうのを憮然とした表情のまま見送る。
 席に戻ってきた彼には目を合わせないように、テレビに集中することにした。
 政治家が今の国会はどうたらと長い話をしていて正直全く頭に入ってこない。
 ニュースよりバラエティよね、とリモコンに手を伸ばそうとしたとき、横からいつもより幾分トーンの低い声がした。

「なぁ佐奈」
「……何?」
「これ。いつもより辛い気がするんだが、何入れた?」

 舌打ちは勿論心の中に留めておく。
 こういうときに限って鼻が利くというか、察しがいいのはどうかと思うのよね。
 けれどここで誤摩化しても所詮仁志には敵わないのだ。
 今までの経験がそれを物語っている、とても不本意だけど。

「……七味」

 答えると、無言で仁志が自分のスプーンをあたしの皿に伸ばしてきた。

「あ?! ちょっと!」

 抵抗はむなしく、そのままカレーが仁志の口へ持っていかれる。
 時既に遅しで怪訝な顔がこちらに向けられていた。

「……やっぱり。なんでお前のは辛くないワケ?」
「気のせいでしょ。舌が麻痺したんじゃないの?」
「な訳あるか。ったく言いたいことがあるなら口で言え! 口で! こんな分かりにくい方法を使うなっての」

 珍しく怒りを滲ませた言葉に口を引き結ぶ。
 なんて伝えたらいいか分からなくて、しばらく逡巡して言葉を選ぶ。

「前の彼女……の事、仁志が悪いと思う」
「あぁ。……言いたいのはそれだけか?」

 低い声に自分が責められているよう感じがしてムッと言い返した。

「仁志って女の子の気持ち考えたことあるの?」
「相変わらず直球な質問だな」
「まさかと思うけど、二股とかしてないでしょうね」
「二股はしない。ただ一方的に別れるときはよくある」
「なっ?! そういうのが最低なんじゃない」
「……るせーな」

 そう言いながら軽く睨むのはやめてよね。
 いやに迫力だけあるんだから毎度の事ながら心臓に悪い。
 本人にその自覚はないのだろうけど。

「……ねぇ。元カノに会わないの?」
「……」
「もう一度会って謝ってくればいいじゃない」

 聡美の様子からして、きっと先輩の受けた傷は深いに違いない。
 っていうか、あんたのせいならば余計ちゃんと責任取ってこいってのよ。
 だけど仁志は静かに首を横に振った。

「俺と会ったらアイツはまた傷つく。俺の顔を見たら嫌なことを思い出すだろ。だから会わない」

 その意思はそう簡単に変わりそうもなくて自然と眉間に皺を寄せてしまった。
 仁志はあたしの無言の訴えに溜め息をこぼした。

「これ以上苦しめたってお互い辛いだけだ。……まぁ 、お子様なお前には分からないだろうがな」
「失礼ね! これでも高2になったんだからっ」

 幼稚園の頃とは考え方も当然違う。
 あの頃は仁志は皆に自慢できる「優しいお兄ちゃん」で、その関係がずっと続くのだろうと信じて疑わなかったのに。
 どこから歯車は狂いだしたのか。
 それとも、あたしだけが理想を求めているだけで今ある現実を狂ったと錯覚しているだけなのか。
 ……それはさておき、どうしても腑に落ちない点がひとつあった。

「なんで仁志みたいなのに女の子が寄ってくるのかしらね」
「ったく言わせておけば……。だいたい男経験の少ないお前に言われたくない」
「む、女の子泣かせてるヤツに文句言われる筋合いこそないんだけど!」

 語尾を強めに言うと、目の前に大きな影ができていた。
 不思議に思って顔を上げるや否や顎をぐいと持ち上げられ、吐息が混じるくらいの至近距離に思わず息を呑む。

「……少しは黙れよ。それとも、その口塞がれたいのか?」

 耳元で囁かないでよ! と言いたいのに、言葉は口で空回りしてしまう。
 仁志の少し伸びた前髪がぱさりと頬に当たり、視線が真っ直ぐと交じり合う。
 心臓がばくばくいっているのが分かって、こんなことで動揺してしまう自分が悔しかった。

「幼馴染だからって、これは佐奈が口を挟む問題じゃない。……もし立場が違っていたらお前もそう思うと思うがな」

 そう言い捨てると仁志はそのまま自室へ引きこもってしまった。
 やがて静かに扉を閉める音が聞こえ、脱力のままに大きなため息を一つ吐いた。
 そして息をゆっくり吸い込んで心を落ち着かせる。
 だけどそう簡単に平常心は戻ってはこなくて、ああもう、とつい言葉が漏れた。
 テーブルに残されたままの食器を一瞥し、仕方なく二人分を台所へ運ぶ。
 テレビの音だけが流れている居間に戻り、なんだか一人取り残された感じがして自分の部屋のドアを開ける。
 ベッドにぽすんと体を沈ませると、スプリングの軋む音がした。
 仁志の言葉がずっと頭を巡っていた。

「幼馴染だからって、あたしの気持ちも気づかなかったくせに……。ったく、態度だけ無駄にでかいのよ」

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