今日はあたしの18年かけての勝負の日。
池田光憲――あいつに。
気持ちを確かめる。
あたしは新たな決意を胸に、チャイムのボタンを押す。
まもなくしてガチャガチャと鍵を外す音。
ドアが開かれ、現れたのは身長180センチの男。
まあ、あたしが172センチあるから、身長差は10センチもない。
だけど、こうしてみるとやっぱりデカい。
彼の目元には変わらず愛用している黒ぶちの眼鏡。
こいつの名前は光憲――あたしの初めての彼氏だったりする。
彼は開口一番に言い放った。
「相変わらず、時間に律儀な奴だなぁ」
「それって褒め言葉に聞こえないんだけど?」
「いや。よく迷わなかったな、って。感心したところ」
「………あ、そ」
呆れた。
時間を守るは当たり前のことでしょ。
住所なんて地図見ればすぐに分かるじゃない。
「とにかく、あがれよ。一通り片付け終わったところだから」
「ん。お邪魔します」
あたしは門をくぐり抜け、玄関の前に立つ。
ちょうど横にいた彼は訝しげにあたしの姿を見下ろす。
「何?何かついてる?」
「……別に?あんま最近、スカート見てなかったなって」
「よくそんなこと憶えてるわね」
「……まぁとにかく上がれって。今、なんか出すからさ」
彼の言葉に甘えて、ブーツを脱ぎスリッパを履く。
続いて彼もスリッパに履き替えて、階段を上る。
あたしは光憲の後ろに続いて、二階の突き当たり西の部屋に入る。
初めて入った印象は、閑散とした部屋だった。
無機質というか、冷たいというか、温かい色のない部屋。
だけど広くて嫌にスッキリとした部屋。
光憲がいつも暮らしている空間に今、いる。
共有する空気は不思議な感じで。
あたしは、しばらく部屋を見渡していた視線を彼へと向ける。
「ああ、適当にその辺に座れよ」
すっと指さされたのは白いソファ。
心なしかうちのより大きく見える。
だが彼の身長を考えれば納得がいく。
そう自分に言い聞かせ、言われたとおりに窓の下にあるソファに座る。
持っていたミニバッグを左横に置かせてもらうことにした。
それから両手を横に置いて、彼を見上げる。
「……座んないの?」
「なんか飲み物でも持ってくるよ」
彼は踵を返し、部屋から出て行く。
あたしは特に引き止めることはせず、その背中を見送った。
パタン、と閉じられるドア。
あたしは手持ち無沙汰になってバッグから携帯電話を取り出す。
ふと液晶画面に目線を落とすと、メール着信ありの表示。
……だれだろ?
不思議に思いつつ、ピンクの物体を開く。
3回ぴこぴことボタンを押し、受信メールフォルダを見つける。
すると友達の恵子からのものだと分かった。
指定して開くと、いつもの見慣れた文章の羅列が出てきた。
たまにギャル文字が混ざるそれを要約すると、『さっき美容院行ってスッキリ切ってもらった』という報告。
確か彼女は来月に推薦を受ける予定だった気が。
……ああ、それで。
返信しようかと僅かに迷ったが、まぁ後でもいいか、と二つ折りのそれを閉じた。
そのとき、階段を上ってくる足音が聞こえた。
それは確実にこちらに近づいてきていた。
あたしは立ち上がり、ドアの前まで駆け寄った。
そして、ゆっくりとドアノブを開ける。
すると案の定、目の前にはお盆にジュースを載せた彼がいた。
「サンキュ」
「イエイエ。どういたしまして」
適当に笑みを浮かべ、彼を通してからドアを閉める。
背後から聞こえるカタン、と置かれる音。
振り向くと、彼が持ってきたそれらをソファの前にある机に置いていた。
あたしが近づくと、光憲はどっかり腰を下ろした。
「炭酸大丈夫だったよな、美咲」
あたしは彼の左横に腰を下ろす。
「うん。平気」
「そっか」
返事を聞くや否や、彼はペットボトルからそれぞれコップに注ぎいれる。
そしてハイ、と渡された。
「ありがと」
あたしは早速オレンジ色をした飲み物を口にする。
だけど、彼はそれには口につけず立ち上がり、勉強机のほうへ歩いていく。
その光景を大人しく見やっていると、彼が机の隣にあるMDデッキの前で何やらがさごさしていた。
「……曲、何でもいい?」
「うん」
そうして流れ出した曲はあたしの知らない洋楽だった。
ふぅん、こういうのを聴くんだ。
彼はいつの間にか隣に戻っていて、ファンタを飲んでいた。
あたしはそれが飲み終わるのを待ってから、切り出した。
「ねえ、ノリ。あたしのこと好きじゃなかったんだよね?」
「……は?どしたの、美咲」
ことん、と置くグラスの音。
けれど、あたしは彼の顔が変わるのを見逃すかとばかりに見つめる。
「どうもしないよ。思ったことを率直に言っただけ」
「ふーん」
何にも思っていない、といった口調。
そして彼は無造作に眼鏡をはずし、丁寧にレンズを拭く。
不自然さのない、いつもの彼の行動。
だが。
ちょっと、そーゆー態度をとるわけ?
それならこっちにだってそれ相応の……。
そう思った、とき。
彼は拭き終わった眼鏡を机の上に置いて、ゆっくりとこっちを見た。
真っ直ぐに視線が交わり、お互いの顔が瞳に映し出される。
だけど、あたしは奇妙な金縛りにかかっていた。
なに、この視線。
離せない。
……どうして。
彼が目線をずらさない限り、こちらもずらせない。
動くことが、できない。
…………どうして。
同じ疑問をもう一度、心の中で繰り返す。
両者の間に流れる長い沈黙。
あたしはついに息が切れ掛かっていた。
呼吸の仕方が、分からなくなっていて。
もうギブアップしたい衝動に襲われていた。
すると。
急に視界が暗くなった。
ああ、もう意識を手放すことになっちゃったんだ。
けど、それは違った。
息が入ってきた。
唇から。
それは、つまり――――
っっ?!!
何をされたのか認識ができるときには、それはもう離れていた。
目の前には変わらずいる、彼。
そのとき、あたしは息の仕方は思い出した。
じゃなくて。
「なに、するのよ」
「さぁ?自分の胸に聞いてみれば」
「……っ、ちょっ……!」
今度は顎をつかまれて拘束される。
それからすぐに降りかかってくる甘い囁き。
「嫌なの?」
耳元で囁くのはやめてほしい。
背筋に甘い電流がわずかに走ったじゃないの。
しかし、それを彼に伝える前に。
再び口を塞がれた。
かすかに触れる彼の体温。
……温かい……。
当たり前だけど。
そう思っていると、ふと気が付いた。
…………ちょっと長くない? これ。
思ってみるとその通りで、長い接吻を交わしていた。
「………っっ……。……んーっ!」
なかなか離してくれない彼に抗議の声をあげる。
すると、しばらくしてゆっくりと離された。
けれど、長い余韻が唇に残っていた。
何となしに上目遣いで彼を見上げる。
「……息切れしてんぞ」
誰のせいよ。
ていうか、なんでノリは何ともないわけ?
――……ああ、慣れてるからか。
そんな考えに耽っていたら、抱きすくめられた。
「美咲が言いたいことは何となく分かる」
「…………あっそう、言ってみなさいよ」
「イヤだ。癪じゃん、そういうの」
「なんで」
そう言うと、今まで見えなかったノリの顔が正面に来て。
彼には珍しく、顔を少し歪ませていた。
「……それはこっちが聞きたい台詞。いきなりどうしたわけ、何かあった?」
「何にも」
「嘘。バレバレだって、美咲。隠し事苦手なんだから、すぐ顔に出るよ」
む。
いいわよ、そっちがその気だったら。
こっちだって、もーヤケよっ!
「あたしのこと嫌いなんでしょ?なんでこういうことするの?」
「こういうことって、どういうこと?」
「賭けで負けたから、あたしに声掛けて。それで付き合ってるんでしょ?あたしたち」
あたしは一気にまくし立てた。
その言葉にやや動揺が隠せない彼。
それからぽつりと呟くように声が聞こえてきた。
「靖に聞いたんだ」
「弁解……できないよね。事実なんだもの」
「…………。なんで『嫌い』って、そう言えるの?」
あたしを見下ろす挑戦的な視線。
だけど、あたしだって怯むかと彼の瞳を射る。
「隣にいたら分かるわ。ノリは別にあたしが好きで一緒に居るんじゃない。そーゆー雰囲気なら敏感だもの」
「へえ。……雰囲気、ね」
「それにあたしを女として見てないでしょ?ただのじゃれてくる子供の扱いと同じでしょ?」
「……違うよ」
「キスだって今のが初めてで。いつだって、あたしに触れようとはしなかった」
「………………美咲はどうしたいの?別れたい?」