-駆け引きは恋の鉄則-

いま、暦は弥生の半ばを過ぎた頃。
桜の花が咲くにはまだ早い季節。
終業式は二時間ほど前に終わり、生徒は部活動がない者たちを除いて下校していた。
だけど、あたしはというと、クラスメイトが誰ひとり居ない教室にいた。
もっとも、教室には二十代半ばであろう教師が一人。
彼は進級試験で唯一ぎりぎり欠点から逃げれなかった生徒のため、補習をしてくれていた。
そう、これは自分の招いた結果。
だから致し方ないことだったが、寧ろあたしはこの状況を楽しんでいた。
目の前にいる教師――秋原要はあたしの好きな人なのだ。

「なあ、白石。やる気あるんだろうな?」
「……失礼ですよっ。合格点のぎりぎりまで取ってるじゃない!ホラ証拠!」

フウ、と息をついてみせる秋原先生にあたしは必死に抗議をした。
だが先生が悪態をつきだした原因は、この追試が一回や二回じゃないからだ。
しかもあたしが分からない箇所の説明を丹念にしてくれたにもかかわらずだ。
彼は回数が増えるたび、どんどん口数がなくなっている。
確かに無理もない反応でもある。
が、物分かりが悪いからこそ今回一人だけ追試と相成ったわけで。

「もう四回目だぞ?そろそろ終わってくれないと、こっちだって予定がだなぁ」

ついにぶつぶつ言い出した先生に、あたしは口をすぼめた。

「意地悪。そんなこと言うンなら、これまでの努力の成果を認めて終わりにしてよ。同じ問題ばっかり見せられて、その度にうんざりする生徒の気持ちに配慮して」
「ほー。そうしたら困るのは白石だぞ?進級がかかってんだぞ?まぁ、どうしてもって頼み込むのなら別に俺は困らないが」
「う……」
「それが嫌ならさっさと合格してくれ」

淡々と話し出す先生。
確かにそれは正論で、あたしに非がある。
このままでは危ういと思って、問題をもう一度見直し、今回のテストで中ぐらいの難しさの問題を指した。

「あ。じゃあさ、先生?……ここの問題の解説して?」
「お前、マジで訊いている訳?今までの俺の授業を無視していたことと同じだぞ」
「ち、違うよ。ちゃんと真面目に聞いていたけど、……分からなかったんだもん。なんか頭に入らなくて。ていうか、ほら、説明しようよ!先生も早く終わらせたいんでしょ?」

だってねぇ………、難しい問題が理解できたと思ったら今度は前の問題の解き方が頭にないんだもの。
仕方ない仕方ない。
だがいつもならすぐに折れて説明を始める口は暫く閉じられたままで、あたしが「どうしたの?」と言おうとした所で彼が口を開く。

「白石がそーゆーことを口走ったからにはそれを聞く権利がある。幸い、明日は土曜だしな」
「な――何を聞くっていうの?」
「そうだな。まず試験を返した日の説明を聞いていなかっただろ?だから今日の簡単な説明だけじゃ理解が追いつけなかった、と」
「…………」
「弁解はなし、だな?」

ってことは、今の今まであたしのことを見抜いていたくせにわざと言わずにいた、ってことよね?
えーっとえーっと、ここはゆっくり考えて。
………………。

嘘ぉぉ!!!何よぉ、分かっていたんならそう言ってくれたってぇぇ!

はぁ泣きたい。
何気に意地悪だ。
あたしは仕方なく言葉を選びつつ、先生の顔を覗き込んだ。

「何で、分かったの」
「そりゃあお前以外の奴、一回でパスしていったんだからな。本来追試は必要ないはずの問題だぞ?」
「はあー、先生。その意地悪さを違う職業で発揮してよォ」
「ほう。そういうことを言うんんなら、もう一回高校二年生を送ってもいいんだな?」
「いやいやいや。ちょっと待って、誰がそんなこと言ったのよ?もう一回なんて真っ平。あたしが悪かったです。すみませんでした!」

必死に謝って見せると、先生は冗談だよ、って優しく笑った。
あー、この笑顔に何度好きになったことか。
そう思うと、あたしは自然と笑顔になっていた。

「何がおかしいんだ?」
「んーんー。こっちの事情。それはソウと先生、何時に帰る気?」
「…………それは答えないといけないことなのか?」
「当然」

あたしが鷹揚と頷くと、訝しい視線を向けられたけど気にしない。

「四時」
「……なら駅前の公園で待っているから、迎えに来て。じゃあ先生、お疲れさまでしたー」

言いながら机にばら撒けていた筆記用具類を集めて、学生鞄の中に無造作に突っ込む。
椅子を引いて立ち上がると、慌てた様子の先生が呼び止める。

「おいっ、テストはどうした?」

予想した展開。
だからあたしはこれ以上とないほどの笑顔を向けた。

「何言ってんの。ほらほらぁ、満点。文句はないでしょ?」
「……騙したな」
「気のせい、気のせい。大人はずる賢いんだから、このくらいは大目に見てよね」

そう言い残して、唖然とする先生を横目で見て教室から出る。
もう引き止める声はなかった。
全ては計画通り。
本当に赤点取るとは思わなかったけど、流石に。
仮にも好きな先生の授業、愛を込めて受けていたはずだのに、やっぱり授業の中身までは頭に残っていなかった。
まぁ、取り敢えずこれであとは相手の出方を待つのみ。

ねえ、先生。
やっぱり恋愛感情抜きで考えることなんでできないんだから、覚悟してね。