-待ち望んでいた春-

桜の花が見頃になるにはあと一週間程、という春先、それまで人をほったらかしにしていた彼氏からご無沙汰の電話が鳴った。

『采実(あみ)、元気だったか?』

元気な訳ないでしょうが。
散々電話は出れるわけがないから掛けてくるな、メールはしてもいいが日に何通も送ってくるな、とそっちの都合ばかり言って。
どれだけ寂しさに耐えてきたと思ってるのよこの男……!

「とっくにあたしの存在なんて忘れ去ったものかと思っていたわ」
『悪かったよ。最近はほら、ちゃんとメールも返してるだろ?それより、卒業式は無事終えたか?』

卒業式、ですって……?

「当ったり前でしょ!ていうかもう一ヶ月も前の話なんですけど?!」
『あー……今は四月か』
「カレンダーくらい見なさいよ!!」

あたしは部屋の端にあるカレンダーを睨みながら声を荒げた。
けれど、電話の向こうからは抑えた笑い声が漏れてきた。

「ちょっと…?!なに笑ってるわけ?!」
『いや、お前は変わらないんだなと思ったんだよ』
「それは子供のまま成長していないという意味なんでしょ、どーせ」

ふんだ、と言うと今度は笑い声も少し大きくなった。

「慎(まこと)はいつも人のことからかって楽しそうね?」
『ああ、分かる?すごく楽しいよ?』
「そんな肯定は求めていないわ。ていうか用件はなに?何か用事があるんでしょ?」

じゃなければ、この面倒くさがりの慎がわざわざ電話なんか寄越したりしない。
伊達に二年も彼女していないわよ、あたしだって。

『……ああ。采実はどういう話をして欲しい?』
「はぁ?意味分からないわよ、それ。あたしに何を求めてるのよ?」
『まぁ、それもそうだな。じゃあ、今俺はどこにいると思う?』

どこって、場所は一つでしょ?
慎は今大阪にいて、あたしは地元で一人待ちぼうけ。
遠距離恋愛だからそれこそマメに連絡を取りたいところなのに、相手は学生と違ってかなり時間のゆとりが制限された社会人。
しかも仕事人間な性質らしく、彼女は二の次と来たものだから悩みは尽きることがない。
そんな慎だから当然、仕事を置いてくるなんてことは有り得ないわけで。
……だから帰省予定が毎回延期になるのよ。
その度にどれだけこっちが落胆しているか、本当に理解しようとしているのかしら。

「大阪でしょう?それ以外にどこにいるっていうの?」
『残念、ハズレ。采実さえ俺に会いたいと思えばすぐ会える距離にいるのに』
「なにそれ、どういう意味よ」
『さあ?ゆーっくり考えてみたら分かることだと思うけど?』

そうやって人の反応を見るのが好きなんだから。
あたしは諦めの意も込め、軽く息を吐いた。
会いたいと思ったらすぐ会える距離って物理的に有り得ないけれど。

……もし、それが例えとかじゃなくて、現実にそうだと言うのなら。

あたしは吸い付けられるようにカーテンに目を移す。
半信半疑のまま締め切ったカーテンをゆっくりと開けて、真下の玄関に視線を下ろす。
暗闇の中にうっすらと見える白い服。
携帯電話を耳に当てた姿の、長身の男。

「嘘でしょ、家の前にいたの?!」
『うん、あたり。だから言ったでしょ、采実さえ会う気があるならって』
「もういいっ!!」

あたしは怒声と共に電話を切り、階段を急いで降りて玄関のドアを勢いよく開けた。

「流石に早いな。そんなに焦らなくても俺は逃げないのに」

悠然と目の前に立っている姿と、記憶の中の姿はすぐに結びつく。
そして頭で考えるよりも先に腕が前へと伸びていた。

「どれだけ会いたかったと思ってるのよ……!」
「うん、ごめん」
「そう簡単には許してあげないんだから」

自分ではない体温を感じて慎の腕の中にいることを確かめながら、あたしは込み上げてくる涙を瞳に溜めていく。

「ご機嫌斜めな彼女に、俺はどうやって許しを請おうかな」

そんなの知らないわよ。
ていうかいっそのこと、ずっとそう考えていればいいんだわ。
あたしの気も知らないで……ほったらかしにしてたんだから。

「なぁ、采実」
「……何よ、この薄情男」
「そうやって面と向かって言われると流石に堪えるけどな。いいさ、分かってるよ。俺が悪かったんだもんな、どこかで采実なら大丈夫だろうっていう勝手な思い込みがあったんだ」

そうよ、その考えのせいでこっちの意地もずっと張らなきゃいけない羽目になったんだから。
彼氏だったら彼女の意地ぐらい見抜いて欲しいもんだわ。
でも……それはそれとしても、だ。

「よく、それが思い込みだなんて分かったわね?」
「俺との電話の後、必ず泣いてたんだろ?毎回無理ばっかりするから日に日に蓄積していくんだよ。何にも言わずに俺が気付くのを待ってたらその前にくたばるぞ」
「わ……悪かったわね」
「まあ、今回は妹思いのおねーさんのお蔭で何とかなったけど。これだけは言っとくからな。いいか、よく聞け」

聞け、ってあなた何様よ?
そう言いかける口を目で制されて渋々真一文字に引き結ぶと、初対面の時の真面目な顔が目の前にあった。

「俺がこれから生きていくためにはお前が必要なんだ。だから……自分の身を大事にして欲しい。今後無理はするな。する必要なんかないんだ」

あたしに向けられているはずなのに、同時に慎自身にも言い聞かせているかのような言葉。
それは、今までの反省も言葉に込められているように感じられ、あたしの爆発しかけていた怒りもどこかに消え去っていた。
これが本当に現実なのか、それとも夢なのか、判断つかないぐらい混乱していた。
そんなあたしに慎の手がすっと差し出される。

「ちょっと遅れたけど、迎えに来たんだよ。もう離れたりしないから」

信じて、いいんだろうか……?
口から出まかせとかはまずないとは分かるけど、それでも数日後には元の態度に戻っているかもしれない。
大丈夫だっていう絶対の保障はどこにも、ない。
信じられるか、信じられないか、今まで溜まりに溜まってきた思いを答えにするときだ。
慎の思いが変わることだって充分あり得るし、今までの不安定の関係だってなかったことにすることはできない。
でも今までどんなに寂しくたって待っていたのは、慎を信じていたからに違いない、はず。
少なくともあたしはそう思いたい。
だから……あたしの気持ちはとうの昔に決まっている。
一人でいたときにずっと自分に問いかけてきた問いには、いつも決まった答えがあったように。
込み上げてくる涙を寸前で耐えていると、それを見透かしたように目の前に何かが光る。

「はい、これ。一生に一度しかない、プレゼント」
「……ゆび、わ?」
「そう、サイズは合うはずだよ。嵌めてみて」

俄かには信じられないプラチナのそれを手渡され、あたしは薬指に指輪を通す。
慎の言っていた通りだった。

「どうして……サイズ」
「そりゃあね、寝ている隙に測ったから」
「……嘘!!」

目を丸くしたまま、それだけを叫ぶ。
そんな訳、ない。
もしそんなことがあったのなら気付かなかったなんてこと、あるわけがない。
そんな思いを込めて軽く睨みつけると、慎は苦笑いを交えながらすぐに訂正を入れた。

「ごめん、嘘。采実のお姉さんに代理で頼んだ」

告げられた真実に、内心少しガッカリする。
夢は夢だとそう突きつけられたような感覚が襲う。
ほんの少しでも期待してしまった自分が恥ずかしい、そう思うと自然と声のトーンが下がった。

「……あぁ、そうだったの」
「そう残念そうな顔するな。そんなに悲しかったか?」
「し、してないわ」

しゃがんであたしの顔を覗き込んでいた慎はフッと顔を上げて言った。
その口元には明らかに笑みの跡。

「上ずった声が怪しいし、すぐ嘘だと分かるけどな。……まぁその方が楽でいいけど」
「楽ですって?!」
「嘘、冗談だって。ただ采実に嘘つかれると俺は悲しいけどなあ」
「つかない……と思う」
「思う?大抵のことは見抜く自信あるから別にいいけどね」

その余裕たっぷりの声音が妙に気に食わない。
あたしはぷぅっと頬を膨らまして顔を背ける。
けれど背中越しに抱きしめられたりしたら、虚勢だけの意地なんて脆く崩れ去ってしまう。
だけど半ターンさせられて、両肩に慎の手が置かれる。
真正面にいる真剣な眼差しに、あたしは慎の目から逸らすことができなくされていた。

「黒乃采実さん。俺と一緒に、来てくれますか」
「……はい」

落とされる口づけに、数ヶ月ぶりのお互いの温もりを確かめ合った。
ようやくあたしにも春が訪れたらしい。